まりっぺのお気楽読書

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フランス王アンリ2世妃 カトリーヌ

2009-03-08 00:41:50 | フランス王妃・王女
フランス版 “ 黒衣の王妃 ”
アンリ2世妃 カトリーヌ・ド・メディシス


1519~1589/在位 1547~1559

カトリーヌがフランス王子アンリと結婚した理由は
ひとえにフランス王室がお手元不如意だったことにあります。

カトリーヌの父ウルビーノ公ロレンツォと母マデリーンは
彼女が生まれて数日で相次いで亡くなっていました。
後見人になったメディチ一族の教皇クレメンス7世が
カトリーヌをフランス王家に嫁がせるべく奔走しアンリとの婚約をとりまとめました。

        

この時アンリには兄の王太子フランソワがいたのですが
さすがに王太子の妃に商人の娘じゃね~ってことでアンリの妃になったわけです。
カトリーヌの持参金は莫大で、フランソワ1世はどうしてもどうしても
彼女の持参金が欲しかったのです。

14歳の時フランスに嫁いできたカトリーヌですが
宮廷生活のスタートは彼女にとって厳しいものだったと思われます。

まず嘲りや陰口、特に、いくら大富豪でトスカーナ大公女といっても
もとは商人じゃないのというあてこすりが酷かったようです。
それでも絶世の美女なんかであれば少しは状況も違ったのでしょうが
カトリーヌはお世辞にも美しいと言いがたい容貌をしていました。

それにアンリにはすでに19歳年上の意中の人ディアーヌ・ド・ポワティエがいました。
アンリはカトリーヌと同じ14歳なんですけど
大人の魅力にメロメロになっていたんですかね?
カトリーヌにはたいして興味を示しませんでした。

それから後ろ楯を失ったことも大きかったようです。
結婚から1年あまりで後見人のクレメンス7世が亡くなりますが
その後を継いだパウル3世がフランスとの同盟関係を破棄したために
カトリーヌの持参金が払われなくなります。
フランソワ1世は「何ももたずに来やがって」と嫌みタラタラです。

さらに、結婚から3年後、王太子フランソワが急死してアンリが王太子になると
カトリーヌがフランソワを毒殺したという噂が流れ始めます。
これはフランソワ1世が介入しなんとかおさまりましたが、十代でこの針のムシロ状態、
普通の娘ならまいってしまうところですよね。

結婚後10年ほどしてから次々と王子を生み、なんとかメンツを保ちますが
相変わらずアンリはディアーヌに夢中だし、1547年にアンリが即位してからも
宮廷での主役はディアーヌでした。
生まれた子供たちもディアーヌの手で育てられたほどです。
有名な話しでは、アンリ2世が戴冠式の際ディアーヌの頭文字を組み合わせたデザインの
紋を纏っていたということでしょうか。 食器にもついていたらしいです。

カトリーヌの歯ぎしりが聞こえてきそうですが、彼女の前途は突然開けます。
アンリ2世が騎馬試合の事故で急死してしまったのです。
カトリーヌはアンリ2世の瀕死の訴えも無視してディアーヌを枕元に呼ぶことを拒み
自分がずっと付き添っていました。 最後ぐらい…と思うけど積年の恨みですからね。

本当に残虐な女性であればディアーヌをどうすることもできたでしょうが
カトリーヌはアンリ2世がディアーヌに贈ったとされるシュノンソー城から彼女を追い出し
二度と顔を見せないよう警告しただけでした。

カトリーヌはその後ずっと喪服を着続けることになるのですが
英国のヴィクトリア女王の場合と違ってすこぶる不評でした。

カトリーヌはアンリ2世を愛していて、彼の死は甚く悲しんだようですが
王の死後はご存知のように摂政として権勢をふるいました。
詳しくは彼女の子供たちのところへ… つづく

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』
      桐生操氏『世界悪女大全』 Wikipedia英語版)

息子を国王にした女たち 講談社


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4 コメント

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Unknown (Y子)
2018-01-26 18:57:11
カトリーヌの最大の復讐は、アンリ2世と彼の愛するディアヌとを引き裂くことではなく、カトリーヌの愛を求め、己の贖罪を受け入れて欲しいと願うアンリ2世自身を、臨終のそばで無視続けることにあったと思います。
ディアヌとの恋愛で愛される喜びを知ったアンリ2世に対して、一番効果的な復讐は、どんなに求めても決して得ることのない愛があることを、理解させることです。
だからこそ、カトリーヌは今まで通り「召使い」の如く振る舞うことで、絶望的な最後を迎えるアンリ2世を眺める方が、彼の愛を受け入れることより至福の喜びに感じたような気がします。
愛されることを受け入れる=人生の敗北、愛されることを最後まで拒否する=人生の勝利、という価値観に達観したカトリーヌならではの復讐といえるでしょう。
返信する
こんばんは (まりっぺ)
2018-02-08 20:59:46
Y子さま、こんばんは
コメントありがとうございます

パソコンがある部屋に暖房器具がないもので、めっきりパソコン近づかなくなってしまい、お返事が遅くなってすみません

そういう復讐もありますか? やはり意志が強い人だったようですね
普通なら受け入れちゃいそうですもんね

若くして、夢一杯で嫁いで来た時から、愛妾にウツツを抜かす夫を見ているうちに培われた恋愛観だったのでしょうか?
返信する
フランスのブラック・ウィドウ、カトリーヌ・メディシス (メリエンダ)
2018-10-06 20:44:39
カトリーヌ・メディシスは、大富豪にして、巨大な権勢を誇ったメディチ家の令嬢。両親には早くに死なれたものの、良い後見人から高い教育を受けさせもらい、カトリーヌは、高い教養を身につけた、けれど、残念ながら、外見がお世辞にも美しいとは言えず、彼女を見たフランス宮廷人は、落胆し、“金貸しの娘”“薬屋の家柄”等とバカにされ、頼みの綱の夫は、妻に無関心‥だからでしょうか?カトリーヌは、美女軍団、イタリア料理、お菓子で独自の世界に入れ込んでいたらしいですね。(そのおかげで、フランス宮廷に、イタリアのお菓子や、料理、とりわけ、食事作法、フランス料理に、フォーク、ナイフを使うようになったらしいですが‥)
そんなカトリーヌに、救いの手を差し伸べたのが、なんと、恋敵のディアーヌ‼ アンリにカトリーヌとの間に多くの子供を作るように進言、(そうしたのには、裏が有るみたいですが‥) 十人もの子供を生み、王妃の役目を無事果たしました。これも、ディアーヌのおかげ? アンリ亡き後は、息子の摂政となり、日陰の存在から、並ぶものなき、権勢を手に入れましたが、ディアーヌへの復讐は、追い出したり、プレゼントの返納だけで、カトリーヌが後に行った残虐行為に比べて、やや控え目な感じがします。正妻としてのプライドを保ちたいが為でしょうか?
返信する
Unknown (Y子)
2018-10-13 10:57:42
再び投稿しますが、ディアーヌに対する最高の復讐は、ディアーヌの2人の娘を手なづけて、彼女達がディアーヌを責めるように仕向けたことです。
ディアーヌが最終的にシュノンソー城を返した背景には、娘達が相続財産になり得るショーモン城との交換を希望したためでしょう。
2人の娘でアネ城を分けることは出来ないから、ショーモン城の相続権が保証されていれば、カトリーヌのために母親を説得したのだと考えられます。
ディアーヌの娘達の嫁ぎ先は、ディアーヌが隠棲した後も王家に出入りしているから、カトリーヌは報復として、ディアーヌの2人の娘には、子供を持たせないように仕向けたのかなと…、これが本当の復讐でしょうかね。
返信する

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