まりっぺのお気楽読書

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イングランド王チャールズ1世妃 ヘンリエッタ・マリア

2008-11-04 01:54:52 | イングランド王妃・王女
内助の功が裏目に・・・
チャールズ1世妃 ヘンリエッタ・マリア


1609~1669/在位 1625~1649

ジェイムズ1世の後を継ぐはずだった兄ヘンリーの急死により王になったチャールズ1世は
母であるアン・オブ・デンマークの最期にずっと付き添うほど優しく
また生真面目な人物でしたが、なぜか不人気でした。

その上、お妃選びを誤ってさらに苦境に立ち
とうとう断頭台で死を迎える事になってしまいました。
        
チャールズ1世は、まず(カソリックの)スペイン王女との結婚を考えますが
プロテスタントの反対にあい交渉が失敗します。
ところが、チャールズ1世が次に選んだお妃候補がまたもや(カソリックの)
フランス王女だったため、さらにプロテスタントの不安を煽ってしまいます。

結婚当初、チャールズ1世には寵臣バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズがいて
ヘンリエッタ・マリアはフランスから連れてきた使用人を追い返されたり
真面目な夫と打ち解けられずギクシャクしますが
バッキンガム公が暗殺されると夫の愛が全面的に妻に向けられるようになり
その後はかなり仲睦まじかったようです。

ヘンリエッタ・マリアは頑なにプロテスタントへの改宗を拒むばかりか
宮廷内にカソリックのチャペルを建てて公然と信仰を誇示しました。
これがまたまた議会や国民(プロテスタント派)の不信感を増大させます。
宗教がらみだと強くは言えないけど、夫婦そろって空気読めない人ですよね

一方国教会統一を掲げるチャールズ1世は、ピューリタンへの弾圧を強め
その手をスコットランドにも伸ばしつつありましたが、これが各地で反乱を招きます。
さらにヘンリエッタ・マリアが王のためを思い反乱議員の逮捕を進言して
おおいに顰蹙を買い、ピューリタン革命が起こってしまいます。

とうとうオリバー・クロムウェルによって王党派は破れチャールズ1世は処刑されますが
その間にもヘンリエッタ・マリアはヨーロッパ中をかけまわって金策をしていました。

チャールズ1世の処刑後は貧困に陥り尼僧院に助けを求めたりもしますが
王政復古後晴れてロンドンに帰ります。
しかし息子たちと気が合わず再度フランスに戻り、豊富な年金を与えられて暮らしました。

ヘンリエッタ・マリアは夫の事は愛していたらしく献身的なんだけど
子供はけっこう可哀想な目にあっているのよね。

五女アンリエッタ・アンは、たった生後15日後で
イングランドを逃げ出した母アンリエッタ・マリアに置き去りにされています。
使用人に連れられて後日イングランドを脱出しました。
事情はあろうが連れて行けなかったのかしら? 生後15日ですよ。
             
               
                 アンリエッタ・アンです
                     無事大きくなれて良かったこと…


また、次女エリザベスもイングランドに残っていて
ただ一人チャールズ1世に別れを告げられた家族でしたが
すぐに捕らえられ、翌年14歳で軟禁先で亡くなります。

                 
                   エリザベスです
                     子供の時しか肖像画がないんです


家族がバラバラになり、最後は処刑で夫を亡くしたヘンリエッタ・マリアですが
そんなに愛していたなら、ちょっと自分が譲歩することで
回避できたこともあるのではないでしょうか?
例えば表向きだけでもプロテスタントになるとか、宮殿内にチャペルを造らないとか・・・

チャールズ1世も、国政のために少しぐらい妻に言う事を聞かせられなかったのかしら?
せめてチャペルはやめてくれんか、とか。

お互いが深く愛し合って、許し合ったことが悲劇をよんでしまうって、やりきれませんね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
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