南斗屋のブログ

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文政11年6月上旬・色川三中「家事志」

2023年06月12日 | 色川三中
文政11年6月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年6月1日(朔)(1828年)
村役人の色川庄右衛門(百姓代)と入樋の件について話す。「その件なら昨日、名主からお伺いがあったので、自分の印鑑をついて御代官書に願書を出しておいたぞ」とのこと。願書提出という重要事なのだから、事前に相談してほしかった。事後報告では困る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「百姓代」は江戸時代の村方三役の一つ。総百姓に代って名主や組頭の執務を監督する村方の目付。百姓代が高持百姓に相談もせず、願書を役所に提出してしまったことに、色川三中はご立腹。入樋の負担金がいくらになるかも絡んでおり、いい加減なやり方は許せないようです。

文政11年6月2日(1828年)晴
昨日から家内一同、麦飯を食べることにした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
一家全員麦飯にするというので、倹約に務める決意。色川家は薬種商としてだいぶ儲かっていると思われますが、父の代からの負債の返済もまだ残っているからでしょうか、倹約志向を強めています。この時代、既に米飯が定着していたことも分かります。

文政11年6月3日(1828年)晴
江戸から大枝清兵衛殿来る。病気のためしばらく土浦にお出でになられていなかった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
大枝清兵衛は江戸の薬種問屋。三中(薬種商)の取引先。大枝清兵衛の本拠は江戸で、土浦には営業に時々来ます。昨年、8月、11月と土浦に来ていましたが、その後病気の為、土浦に来ることができませんでした。


文政11年6月4日(1828年)
・ひものやのババが死去(75歳)。
・坂村の大宮史敬老、来る。酒肴出して歓待する。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「ひものや」は屋号。「ひものや権七」(80歳)の妻かもしれません。屋号で呼ぶ習慣は廃れつつありますが、私の母(昭和十年代生)は屋号を代名詞としてよく使っていましたので、その世代は江戸時代の習慣を引き継いでいたのですね。


文政11年6月5日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年6月6日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年6月7日(1828年)曇
一ノ矢の八坂神社の例祭。下男の茂兵衛を代参させた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・一ノ矢八坂神社は、創建が平安時代とされており(伝・貞観元年(859年))、古くからある神社です。(旧暦)6月7日は例祭(祇園祭)。「ニンニク祭り」というユニークなネーミングだそうです。
・色川三中宅から一ノ矢八坂神社までは10キロ強。徒歩であれば3時間近くかかるでしょうから、お参りして往復するのは一日掛かりになってしまいます。そのため三中はお参りに行かず、従業員に代参されています。従業員すれば、例祭の日でもあり、楽しみだったと思われます。
土浦城 大手門跡-一ノ矢八坂神社 (11 km)

土浦城 大手門跡 to 一ノ矢八坂神社

土浦城 大手門跡 to 一ノ矢八坂神社



文政11年6月8日(1828年)曇
隠居(祖父)と話しをした。弟の金次郎から隠居宛の書簡のことが話題になった。金次郎が15歳のときのもの。立派な筆跡だ。父親が存命であれば、学問を積み、書家にでもなることができたであろうに、残念なことである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の父親は既に亡くなっており、ここでの隠居というのは祖父のことです。「金次郎」は三中の弟。弟が祖父宛に書いた書簡の筆跡が見事であり、父親が亡くならなければ学問をつむことができ、書家にでもなっていたろうにと残念がっています。その思いは自らにも向けられており、三中も学問がしたかったのでしょう。

文政11年6月9日(1828年)曇
・佐助と徳兵衛を鹿嶋(鹿嶋市)に出張にさせた。
・在医への売上げは近年好調。
酉年(3年前)は年間42両(一年間)
戌年(一昨年)は半期で15両
亥年(昨年)は半期で125両
子年(今年)は半期で150両
これは父祖のおかげである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
在医への売上げがメモされており、昨年から顕著な売上増です。「在医」というのは、土浦の町方ではない地方の医者という意味で、三中自身営業に回っており、売上増にはその効果もあるのでしょう。


文政11年6月10日(1828年)晴
昨日佐助らが鹿嶋に出立した後、書付を渡そうと思い、香取の茂吉(15歳)に、「まだそれほど遠くではないだろうから、追いかけていって渡してくれ」といった。しかし、正午になっても戻って来ず、夕方ようやく帰ってきた。
どこまでいったか聞いたら、「会えなかったので柏崎まで行った」とのこと。「追いかけましたが会えなかったので、気がついたら柏崎まで行ってしまいました」と言っている。どうも気の回らぬ者である
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の香取の茂吉は当年15歳。三中が書いた書付を渡すのに、先輩従業員を追いかけていって会えず、「柏崎」(かすみがうら市)まで行ってしまったといいます。調べてみたら、土浦から片道20キロ。これではなかなか帰ってこないはずです。気がきかないといわれても仕方がありません。
土浦城 大手門跡-柏崎

土浦城 大手門跡 to 柏崎

土浦城 大手門跡 to 柏崎




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