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嘉永6年6月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年06月26日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年6月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年6月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。夕方、高松様来られる。「この度の異国船騒動で内海(東京湾)にある陣所の見分を命じられました。夕方に深川に集合し、船で行きます。御小人目付200人の中からこのお役目に選ばれたのは4名。名誉なことです。」
(コメント)
現在は東京湾と読んでいますが、当時は「内海」。ペリー来航の6年前から四藩(川越、彦根、会津、忍)が東京湾警備にあたっており、各藩の陣屋がありました。高松氏は御小人目付として、見分(監察)するように命じられています。


嘉永6年6月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
昨日、幽学先生は高松様がご出立なされてから、小石川(高松氏の自宅)にお祝いに行かれ、小生も同道。高松様のご両親は異国船来航に意気盛ん。
親父様「年はとりましたが、合図の鐘があればお城へ駆けつけ、命を差し出し一働きする存念です。後世に恥をさらすようなら御恩に報いたい。」
奥様「合戦になれば、私も長刀で参戦致します」と。
(コメント)
高松氏の両親の発言はまるで戦時中の日本人の発言です。というより、戦時中の日本人がこのような考え方を植え付けられたのでしょう。注意すべきは、高松父は武士(軍人、戦闘員)であり、非戦闘員(幽学、五郎兵衛ら)はこんな発想をしていないことです。

#ペリー来航
嘉永6年6月12日(1853年)
ペリー、東京湾を離れ、琉球に向かう。

嘉永6年6月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
昼過ぎ、高松様が湊川の借家に来られる。
四日四晩徹夜で、御城からのお帰りとのこと。高松様「こ度の御役目、首尾よく終わりました。異国船は本日正午に出帆し、立ち去りました」
 (コメント)
ペリー来航で、高松氏は四日四晩徹夜と激務。見分を終えた高松氏はその足で幽学らのいる借家に来ているようです。いかに高松氏が幽学らを大切にしているかがこのことからも分かります。ペリーは出航しており、江戸に危険がないことを知らせたかったのでしょうか。

嘉永6年6月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ行ったあと、小石川の高松様宅へ行く(幸左衛門殿と同道)。門弟一同の惣代(代表)として、高松彦三郎様にお祝いを述べた。彦三郎様は上機嫌であった。
(コメント)
昨日は高松氏が借家の方に来たので、本日はご自宅にお祝いを述べに行っています。五郎兵衛がこのような役を担うのは珍しい。文中の「高松彦三郎様」は、御小人目付高松彦七郎の嫡男です。

嘉永6年6月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
土用。湊川の借家へ行く。昼、弁慶橋の餅屋に行き、土用餅を食べる。
(コメント)
「弁慶橋」は今は港区にありますが、五郎兵衛の頃は、神田松枝町と岩本町の間を流れる藍染川に架けられていました。現代では、土用は鰻の方が知名度が高いですが、五郎兵衛にとっては土用といえば餅。この日を待っていたかのような書きぶりで、食いしん坊の五郎兵衛らしい。

嘉永6年6月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ行く。良左衛門君と二人で出かける。丸ノ内、竹橋御門を通り、田安御門、九段坂から駿河台を廻って休憩していたら、幽学先生御一行とバッタリ。小石川の高松様宅からの帰り。高松様から此度の御役目の話しを詳しく聞かれたと
(コメント)
五郎兵衛は、年下の良左衛門と江戸の町をぶらついています。用事が書いていませんが、この頃は門弟中に経費節減が叫ばれていることもあり、単なる散歩なのかもしれません。


嘉永6年6月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ行く。正午、淀藩の上屋敷に参れとの御沙汰。御代官様に御目通りする。「この度の裁判で江戸に延々といなければならないのは困りものだな。医師が村にいなければ困るだろう。元俊は病気ということで、帰村させてもらうが良い」と仰られた。
(コメント)
五郎兵衛、元俊医師は長沼村(成田市長沼)の者で、同村は淀藩領でした。医師不在のため村も代官も困ってしまったのでしょう。藩の方から仮病を使って、帰村(一時的に村に帰ること)を奉行所に申請せよとの指示が出ています。

嘉永6年6月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
幽学先生が御病気になられたとのこと。元俊医師ともども湊川の借家へ。診察の結果、特に問題はないとのこと。その後、小生は平右衛門と共に、今回の裁判の諸経費を調べた。
(コメント)
幽学先生が病気で寝込んでいますが、元俊医師の見立てでは大したことないとのこと。環境の変化に適応できず、今でいう適応障害のような状態になってあるのかもそれません。五郎兵衛は経費の調査。裁判の費用がどれだけかかるのか、平右衛門と一緒に調べています。
江戸訴訟にかかる経費
・出府と帰村の旅費
・公事宿の宿泊費、謝礼
・腰掛その他勘定奉行所での費用
・着届帰村時領主地頭への贈答(贈賄ではない)
・中食代、髪結い、銭湯、たばこ代など必要最小限の日常生活雑費等
高橋敏「大原幽学と江戸訴訟」(『紛争と訴訟の文化史』所収)による。


嘉永6年6月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
元俊医師と共に淀藩上屋敷へ。御代官様からは、「必ず帰村願いを奉行所に出すように」との仰せ。公事宿の山形屋に帰村願い作成について相談すると、「御代官様への御礼が先では」とのこと。
幽学先生にも相談すると、「それは当然のことだ」とのお話し。そこで、使番衆へ酒一升、御代官様へも御礼のお品をお贈りした。
(コメント)
元俊医師の帰村を代官から指示された五郎兵衛は、書面を書いてもらおうと公事宿に頼みますが、公事宿は「御代官様への御礼が先」との指摘。幽学先生の了解を得て、贈答の品を代官に送っています。現代では賄賂になってしまいますが、江戸時代はこのような贈答なしには円滑に社会が動かなかったのでしょう。

嘉永6年6月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
元俊医師を仮病扱いするので、元俊帰村の願いは、小生が元俊に代わりに奉行所に出す(代兼願い)。差添は蓮屋に頼む。腰掛で待機し、昼前に呼び出される。「願いについてはおって沙汰に及ぶので、本日は帰られよ」とのこと。
腰掛の支払いをして、湊川の借家に行く。
幽学先生が、幸左衛門殿が強情なこと、良左衛門君が気配りのないことを叱っておられた。
(コメント)
元俊を仮病扱いにして、帰村にさせる願いを五郎兵衛が奉行所に出しています。このことは淀藩代官もご存知のこと。いや、贈答もしましたし、代官から奉行所にも話しはしてくれているのでしょう。湊川の借家に行くと、幽学先生が他罰的になっています。一昨日の記事で「病気」となっていますから、体調が良くなく、易怒的になっているのかも。
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