南斗屋のブログ

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大原幽学の刑事裁判と「五郎兵衛日記」

2022年12月05日 | 大原幽学の刑事裁判
(大原幽学の刑事裁判と「五郎兵衛日記」について)
 大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」というものがあります。
 日記原本は成田山仏教図書館に所蔵されており、その翻刻が1999年に限定300部で出版されています。
 翻刻されているとはいえ、江戸時代後期の文章は、現代人にとってはスラスラ読めるというものではなく、また現代語訳したものも見当たらないことから、拙い抄訳を ですがブログにて紹介しようと考えた次第です。

(江戸の刑事裁判)
「五郎兵衛日記」は、江戸の刑事裁判の様子を記録しております。刑事裁判とはいっても、毎日審理が開かれているわけではないので、その前後の様子や江戸での裁判を待つ間の暮らしの方が分量としては多くなります。

(大原幽学が被告人とされた経緯)
五郎兵衛日記は五郎兵衛に呼出状が届くところから始まるので、その前に起こったことについて説明します。
大原幽学はこの裁判が始まる嘉永5年当時は56歳。もともとは尾張藩の武家の出身なのですが、18歳のときにわけあって生家から勘当され、流浪生活に入ります。
大原幽学が房総(現千葉県)を初めて訪れたのは36歳のとき。居を据えることとなる長部村(現千葉県旭市)を初めて訪れたのは39歳のことでした。
大原幽学は長部村(現千葉県旭市)をはじめとして農村改良に取り組み、近隣の村にも多数の門人を獲得していきます。

(改心楼の建設と牛渡村一件)
嘉永3年(1850年)には門人数急増のため、大勢のものが集まることができるようにと、「改心楼」と名付けられた教導所が長部村に建設されました。しかし、これにより大原幽学は刑事裁判に巻き込まれてしまうのでした。
嘉永5年4月(1852年)、改心楼は関東取締出役に目をつけられ、同役の手先である常州牛渡村忠左衛門ら4名が改心楼に乱入する事件がおきます(牛渡村一件)。
牛渡村一件を理由に関東取締出役は大原幽学やその門人の取調べに入ります。牛渡村一件では、大原幽学側は被害者なのですが、この件を足がかりとして関東取締出役は捜査を行ったことになります。
関東取締出役の手先が刑事事件を起こし、それを理由に被害者の取調べをしているのですから、今の感覚でいうと権力の横暴甚だしいのですが、当時は平気で行われていたのかもしれません。

(幕府評定所による吟味)
関東取締出役の判断により、嘉永5年8月(1852年)から幕府評定所の吟味が始まります。この大原幽学は当初から呼出を受けて江戸に赴いております。
関東取締出役は、今の捜査機関の捜査。捜査を行った上で、裁判が開始されるのですが、裁判を担当するのは幕府評定所です。幕府評定所は江戸にしかありませんから、江戸に呼出しを受け、その間江戸に滞在しなければなりません。

(五郎兵衛の日記)
日記の作成者成毛五郎兵衛は、大原幽学らよりは遅れて呼出しを受けています。大原幽学が8月から吟味を受けているのに、五郎兵衛が呼出しを受けたのは12月です。五郎兵衛は、大原幽学の拠点である長部村(旭市)ではなく、長沼村(成田市)の門人であることが関係しているのかもしれません。



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