文政11年3月下旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
文政11年3月21日(1828年)庚申 雨
山口長屋の仁兵衛さんが、江戸から土浦に戻ってきた。昨日正午ころ、私の母親と松戸でばったり会ったとのこと。母は無事なようで安心。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川三中の母親は江戸旅行中。知り合いから、「松戸(千葉県松戸市)でお母さんに会ったよ」といわれ、母親の無事を安堵しています。土浦ー江戸間の往来は頻繁でそう心配するほどではないはずですが、知り合いからの消息は嬉しいものです。
文政11年3月22日(1828年)
(編集より)
本日色川三中先生は休筆です。
#色川三中 #家事志
文政11年3月23日(1828年)雨
江戸崎の大庄屋である松兵衛殿から「なべや一件」について書状が届いた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸崎は現在の茨城県稲崎市。2005年に合併で江戸崎町は消滅してしまいましたが、それまでは江戸崎村⇒江戸崎町として江戸崎の名前が残っていました。「〇〇一件」とありますから、何か訴訟になりそうな紛争でしょうか。庄屋からの書状が届いたので対応をせざるを得ません。
文政11年3月24日(1828年)晴
新しい店を中城(土浦市)に出し、従業員の与兵衛に任せることとした。守るべき心得の書面を、与兵衛から提出してもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛は昨年末に店を辞めるといっていましたが(12月23日条)、その後仕事を続けており、妻も土浦に呼び寄せていましたが、店を任せることで話しがついていたようです。与兵衛の店は中城にあります。中城の地名は失われましたが、中城通りとして現在でも土浦市にその名が残っています。
文政10年12月23日(1827年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) December 22, 2022
与兵衛が当年限りで暇をもらいたいとのこと。勝右衛門を通してそのように言ってきた。#色川三中 #家事志
文政11年3月25日(1828年)甲子 曇
・与市を江戸崎の松兵衛殿(庄屋)に遣わす。先日、なべや一件で書状が届いたので、庄屋と交渉をしてもらうため。
・いつもどおり大黒天を祭る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸崎の庄屋から「なべや一件」について書状が届いており(3月23日条)、その対応で与市を派遣しています。従業員の中で最も交渉力のある与市を派遣するとは、やはりかなり難しい案件のようです。
文政11年3月26日(1828年)
(編集より)
本日色川三中先生は休筆です。
#色川三中 #家事志
文政11年3月27日(1828年)曇
与市が江戸崎から戻ってきた。なべや一件につき江戸崎の庄屋と交渉したことの報告を受ける。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸崎の庄屋から「なべや一件」について書状が届き(3月23日条)、一昨日江戸崎に行かせていた与市が戻ってきました。江戸崎への二泊三日の出張。交渉内容は記載がありませんが、与市がうまく交渉してくれたのでしょう。
文政11年3月23日(1828年)雨
— 断感ろーれんす (@tk23956) March 22, 2023
江戸崎の大庄屋である松兵衛殿から「なべや一件」について書状が届いた。#色川三中 #家事志
文政11年3月28日(1828年)
・江戸に旅行に行った母から無事との書状が届く。
・板橋不動尊に参詣。昨年来、代参のみであったので、今日ふと思いたって自ら参詣に来た。近くの知り合い宅にも寄る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川三中の母親は伴を連れて江戸に旅に行っています。知り合いから、松戸でであったとは聞いていたものの(3月21日条)、本人からの書状が届くのは、また別の嬉しさがあります。現代では海外にいてもスマホで簡単に連絡がとれてしまいますが、不便な時代には、そのときなりの心の通わせ方があります。
文政11年3月21日(1828年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) March 20, 2023
庚申 雨
山口長屋の仁兵衛さんが、江戸から土浦に戻ってきた。昨日正午ころ、私の母親と松戸でばったり会ったとのこと。母は無事なようで安心。#色川三中 #家事志
毎月28日は板橋不動尊の縁日です。
板橋不動尊の本尊は不動明王で、その縁日が28日。色川三中がふらっと参詣に赴いたのも、縁日だからという理由があったようです。
文政11年3月29日(1828年)
昨日、勅使河原勘兵衛殿死去。この方には大変世話になった。ご厚恩は忘れてはいけない。本日、従業員の徳兵衛を手伝いのために遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
勅使河原さんの名前は先月にも日記にあり、そのときはご息女の訃報でした(2月15日条)。そのときも「高恩ある人なので、以後も付き合いを欠かさずに行うべき」と記していましたが、今回も同様の記載。もっとも、その内容は記載されていません。
文政11年2月15日(1828年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) February 14, 2023
勅使河原様のご息女が昨日死去。叔父の利兵衛殿を遣わした。本日葬儀。手伝いを一人遣わした。高恩ある人なので、以後も付き合いを欠かさずに行うべきである。#色川三中 #家事志
文政11年3月30日(1828年)
高持(百姓)の会合。悪水入用金の分担につき話した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
高持百姓は本百姓ともいい、年貢付きの田畑を持って、持高相当の年貢、諸役を勤める中堅の百姓のこと。色川三中は高持百姓です。悪水とは、水田や畑からの排水等のことで、このような共用物にかかる費用の協議をしています。この一件は、これからかなり問題になってきます。
文政11年に3月31日は存在しませんので(旧暦に31日はありません)、#色川三中 #家事志はお休みです。