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嘉永6年4月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年04月24日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年4月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年4月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
元俊医師のために薬を取りに行くのが、小生の仕事。薬は岸部屋から調達している。
本日も岸部屋の清蔵さんのところに薬を取りに行った。雨が降ってきたので、傘を借りて、湊川の借家へ行く。
(コメント)
五郎兵衛は元俊と同じ村のもの(長沼村;現成田市)。両名は山形屋という公事宿に宿泊しています。元俊は医師で多忙であり、五郎兵衛が率先して元俊医師の薬を取りに行っています。今日は途中で雨が降り、岸部屋さんから傘を借りて、作戦本部のある湊川の借家へ行くのでした。


嘉永6年4月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
早朝、源兵衛の父親が病気なので診てほしいとの連絡があり、元俊医師と湊川の借家まで行く。源兵衛父の病状は大したことなし。小生は著述の読み合わせを行う。夕方、宿(山形屋)へ戻る。
(コメント)
仲間が病気となり、元俊医師にみてもらったところ、大したないとの診断。一同ホッとしてたことでしょう。江戸に出てきてストレスがかかり、病気になる者が多い中、仲間に医師がいるのは心強いことです。


嘉永6年4月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
市右衛門殿が本日村に帰るので、大原幽学先生に暇乞いに来られた。先生からは市右衛門にお言葉をかけられていた。
 (コメント)
帰村者の暇乞いの記事。大原幽学や村の有力者が江戸にいるため、様々な用で村から人が江戸まで来ていたようです。裁判で呼び出しを受けていない者は、自由に村と江戸間を往復しています。

嘉永6年4月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
奉行所に提出する書類は仕上げてしまったので、奉行所からの呼び出し待ち。午前中に湊川の借家へ行くが、やることもないので本の書き写しをする。夕方には本銀町の岸部屋に行き、傘を返してから宿(山形屋)に戻る。
(コメント)
これまで奉行所に提出する書類を作成するのに懸命でしたが、それも終わったので、呼び出しがあるまで暇になってしまいました。書物の書き写しをして暇を潰しています。



嘉永6年4月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
昼過ぎ湊川の借家へ行く。高松様が湊川に来られていたので、打合せを行う。その後、一同髪結いし、湯に入る。夕方、宿(山形屋)に戻る。
(コメント)
奉行所に提出する書類を作成しおえたので、暇になっています。いつもは昼前に湊川に行くのに、昼過ぎ。打合せが終わった後は、髪を結いに風呂とノンビリした様子が伝わってきます。

嘉永6年4月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ行く。元俊医師は多忙で山形屋に留まる。多忙な元俊にかわって、小生が湊川で情報を集める役目。とはいえ、本日も特にやることがないので、本の書き写しをした。
(コメント)
大原幽学の刑事裁判で呼び出された被告人は、いくつかの村民です。公事宿は村毎に分かれています。湊川の借家は作成本部となっており、五郎兵衛は毎日ここに行って、情報収集をしています。元俊医師は多忙であり、湊川に行かないこともしばしば。元俊医師との連絡調整役も五郎兵衛の仕事です。

嘉永6年4月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
奉行所から呼び出しもないので、今日は七人で集まって江戸見物。芝権現様を参詣。大僧正様のお帰りを拝する。増上寺参詣。愛宕社で周囲を見渡す。霞ヶ関、赤坂、麹町を通って音羽護国寺参詣。同寺に富士山あり。「参詣の者神妙にすべし」とのはり札があった。
(コメント)
ここのところ公事宿と作戦本部(湊川の借家)の往復ばかりでしたが、今日は息抜き。仲間と江戸見物です。芝権現⇒増上寺⇒愛宕神社⇒護国寺と現代でもそのまま理解できるルートです。護国寺の富士山とは音羽富士のことです。


嘉永6年4月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
宿で書物の写し。そこへ忠兵衛が遊びに来て、「今日は西丸様の橋馬御成があるから、馬喰町通りまで木戸は締切りだ」とのこと。
その後、大原幽学先生が長部村と縁を切ると言っているとの話しにびっくり。急いで湊川の借家へ行き、対応に追われる。湊川に泊。
(コメント)
五郎兵衛は今日もやることなく、書物の写し。そこへ仲間が遊びに来て、「西丸様(徳川家定)が馬で外出されるので木戸が締切りだぞ」と交通規制情報を持ってきてくれました。とそこへ、大原幽学が長部村(幽学の最重要拠点)と縁を切るとのトンデモ発言。その対応に追われる五郎兵衛でした。

嘉永6年4月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
大原幽学先生が「長部村と縁を切る」と言っていることに門弟一同で対応。皆と話合い「この上はお互いに道を行うに障りのあることは腹蔵なく話そう。先生の教えを守り、村に帰るまで先生を安心させて過ごそう。道一筋の心で帰村しよう。」と取決めた。
(コメント)
昨日の大原幽学のトンデモ発言に対応する門弟たち。奉行所からいつ呼出されるか分からず、奉行所がどのような判断をするかも分からないという不安定な立場に立たされながらも、一旦事あれば一致結束して対処するのは立派です。

嘉永6年4月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
大原幽学先生が「長部村と縁を切る」と一昨日から言い始めたことは、昨日門弟が一致結束したこともあり、事態は収まった。やることがなくなったので、小生は湊川で書物の写しをした。
(コメント)
先日来の大原幽学のトンデモ発言は門弟たちの対応で収まり、五郎兵衛はまた手持ち無沙汰になってしまいました。湊川の借家でやることといえば、書物の写し。ここ数日は緊張していたでしょうから、ホッとする一時も必要なのです。
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