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文政11年4月中旬・色川三中「家事志」

2023年04月20日 | 色川三中
文政11年4月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年4月11日(1828年)
従業員の与兵衛の子(7歳)が突然高熱を発し、気絶。そのまま息絶えてしまった。与兵衛の実家(谷田部)に連絡のため、利助を遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛は色川三中の従業員。先日、中城の店を任されたばかりです(3月24日条)。妻子と共に新生活を始めたのに、子どもが突然死してしまう悲劇に見舞われました。


文政11年4月12日(1828年)
夜八つ(午前2時)、谷田部から与兵衛の親類、組合計6名が加籠で来る。夜明けまで協議し、葬式は谷田部で行うと決まったとのこと。与兵衛らが谷田部へ行こうとしたら、与兵衛の女房が産気づいてしまった。朝五つ(午前8時)、女子を出産。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛の子どもが突然死してしまい、葬式をどちらで(谷田部か土浦か)が問題になっていましたが、そのような事を話し合っているうちに、与兵衛の女房が産気づき、女子を出産。死ぬる命もあれば、生きる命もあり、悲喜こもごもです。

文政11年4月13日(1828年)
従業員の与市を菅谷に遣わす。要助から爪判の書付を取ってきてもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
爪判とは文字通り爪を押印の代わりとするもの。要助は印鑑を持っていなかったようです。押印なしの現代では署名で十分ですが、当時は爪判が必要とされていました。



文政11年4月14日(1828年)
入樋の設置費用について、隣り主人らと協議。工事費用は60両かかる。高持百姓がこれを負担せざるを得ないのだが、まとめるのが難しい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
3月30日の高持百姓の会合で悪水入用金の分担が話し合われており、今日の記事での入樋の件もこのときのものと関連していると思われます。自治体や組合がない時代ですから、工事費用は高額となり、各家が分担しなければなりません。それぞれの事情があり、まとめるのは難しい状況です。



文政11年4月15日(1828年)
昨夕から与兵衛の女房が発熱、咳もひどく、寒熱往来。本日夕方見舞いに行くが、咳、上衝発熱、脈浮大。産後の脈にして悪症。医者の処方では効果なく、持参したサフランを飲ませる。与市が昼夜看病している。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛の女房は4月12日に産気づき、女子を出産していますが、産後、体調をかなり崩してしまいました。
三中は、医者の処方は当てになないと、持参のサフランを飲ませています。与市は昼夜看病。頭が下がります。
サフラン


文政11年4月16日(1828年)
入樋の設置費用分担の件。費用60両のうち、15両は御上様から、虫掛村からは5両拠出。土浦の高持百姓は残り40両であるが、やはり高額にすぎる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の設置費用については、4月14日にも協議されていて、このときも話しがつかず。土浦の高持百姓の分担は40両であることがこの記事で分かりますが、それでも高額なようです。皆、そこまでの余裕がないのでしょう。


文政11年4月17日(1828年)曇
・せい(妻)が政之助らと谷田部から戻る。
・昨日の夕方、与兵衛の本家の夫婦来る。亭主のみ今日谷田部へ帰る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
せいは三中の妻。4月9日に実家(谷田部)に久しぶりに里帰りしていました(父親の七年忌のため)。一週間弱ほど実家でノンビリできたようです。


文政11年4月18日(1828年)晴
・与兵衛の妻の看病のために、与兵衛の姉(きえ)が来る(本家の女房は亭主と共に谷田部へ帰った)。
・川口で芝居をやっているので、店の者が見に行く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・与兵衛の妻は持ち直したものの、まだ看病が必要なため、長期戦覚悟で与兵衛の姉が土浦に来ました。本家の夫婦が最初に動いているので、本家がイニシアティブを取って動いています。
・「川口」は土浦市川口。芝居小屋が常設で存在するわけではなく、地方巡業で興行をしているようです。
川口

川口 · 〒300-0033 茨城県土浦市

〒300-0033 茨城県土浦市

川口 · 〒300-0033 茨城県土浦市



文政11年4月19日(1828年)
・与兵衛の女房の具合はだいぶ良くなったが、脈の具合からするとまだ予談を許さない。 
・せい(妻)や利兵衛ら家内の者8、9人で、川口でやっている芝居に行く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛の女房の体調はだいぶ良くなり、命に関わる心配はなくなりました。それもあってか、今日は三中の家族が芝居を見に行っています。今とは異なり娯楽が少ないので、寄り集まって観劇に行ったのでしょう。
 
文政11年4月20日(1828年)曇
入樋の件を、町内の高持百姓には全て説明した。誰もが高額の負担を望まず、減額を希望している。享保・延享のときの例を調べるため、そのころの帳面を調べ直している。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の工事費用の分担の話しは、なかなか進まず。皆余裕がなく、分担金の減額を希望しています。享保(1716年– 1736年)、延享(1744年-1748年)まで遡って前例を調べています。百年前の帳面がきっちりと残してあることが分かります。



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