南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

嘉永6年3月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年04月06日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年3月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(部分・大意)。

嘉永6年3月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記
蓮屋に行き、朝から昼過ぎまで帳面の調査。調べがついたところで、湊川の借家へ。作成したものをご覧にいれたところ、間違いが見つかり、手直し。夜には近所で火事もあり、落ち着かない。午後10時頃ようやく作業終了。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛らは、奉行所へ提出する資料(証拠)の作成をしています。作業場所は蓮屋(公事宿)。朝から昼過ぎまで作業をしましたが、残念なことに間違いがあり、修整にまた時間がかかっています。作業が終わったのは午後10時ころでした。

嘉永6年3月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昨日とは別の帳面(先祖株関係)の調査。早朝、蓮屋に行き、日が暮れるまで必要箇所を手書きする。夕飯を食べてから、湊川の借家に行き、作成したものをご覧にいれた。ところどころ修整あり。午後8時ころ蓮屋に戻り、手直しをしたが、終わらないので蓮屋に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日も五郎兵衛らは、奉行所へ提出する資料(証拠)の作成。作業場所は昨日同様蓮屋(公事宿)。今日は元の帳面から必要箇所をピックアップする作業のようです。湊川の借家に行って、大原幽学らに資料を確認してもらってから、また作業。今日予定している作業か終わらず、蓮屋に泊まりとなりました。

嘉永6年3月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
・昨日に引き続き、帳面の調査や奉行所へ提出する書面の作成。公事宿である蓮屋の助言も受けつつ進める。
・平右衛門が荒海村のお代官様にお話しを伺ってきた。お代官様の見立てでは、この裁判厳しい結果となるかもしれぬとのこと。
・湊川の借家へ行き、平右衛門から大先生(大原幽学)に報告。「これまで落度なくやってきたのであるから、どのようになってもせん方なし」と一同覚悟を決める。
・「たとえ性学が潰されても、教導所が取壊されても、江戸に呼出された者が死ぬことがあっても、この道を立てないではおかれぬ」と皆決心する。
(コメント)
公事宿=弁護士というイメージだったのですが、これまであまり助言している感じではありませんでした。本日の記事では、蓮屋さんが助言しているとの記載があります。昨日まで間違いが後でわかって修整する作業を繰り返していたので、公事宿のアドバイスを受けた方がよいと思ったのかもしれません。
・裁判が厳しい結果となるかもしれないとの情報に、一致結束し怯むことなく、この道を進むという悲愴な決意を固める大原幽学とその弟子たち。

嘉永6年3月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
・早朝から書面の作成を行う。
・昼前に湊川の借家に行く。高松様がおいでになられていた。
・大原幽学先生ご自身が出自を明らかにしておられず、無宿者という嫌疑をかけられているのだが、高松様は大先生を自分の弟と主張し、大先生を無宿者とはさせないとの固いご決意。
(コメント)
大原幽学らが裁判にかけられたきっかけは、立派な教導所を作ったことにありましたが、関東取締出役の調べで、無宿者の嫌疑もかけられています。大原幽学は尾張の武士の出身のようなのですが、その出自を頑なに明かさなかったからです。このままでは無宿者として処分されかねません。

そこで、長部村出身の高松氏は幽学の兄であることにしょうというのが、関東取締出役に調べられてから出てきたアイデアでした。これは身分の偽装ですので、高松氏にとっては甚だ危険な行為です。危険をおかしてでも幽学を守ろうとする長部村の人々の熱意が表れています。

嘉永6年3月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
朝から蓮屋で打合せ。昨日の高松様のご決意を聞いて、「今日一日は酒を飲まない!」と目標を口にするものもいる。我々一同も決意を固め、湊川の借家で大先生にそのことを述べる。代表が高松様方に行き、「我々や性学がどのようになろうとも、高松様方には恥はかかせられない」との我々の決意を伝える。
(コメント)
公儀に対して身分を偽装してでも幽学を守ろうとする高松氏の決意を聞いて、弟子たちの意気もあがっています。それにしても、「今日一日酒を飲まない」ことが目標となるとは、皆さんどれだけ毎日酒を飲んでいたんでしょうか。それだけ江戸時代後期はストレスフルな世の中だったのかもしれません。

嘉永6年3月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
蓮屋に途中寄ってから、湊川の借家へ。中食。高松様がご登城のお帰りに湊川に立ち寄られる。「長部村の教導所は農民が学ぶ場であり、拙者には何も問題ないようにみえるが、奉行所で裁判となっているのだから、何もないというわけにはいくまい。」高松様が仰ったのはこれだけだが、固いご決意のお言葉である。
(コメント)
記事に出てくる「教導所」は、嘉永3年(1850年)に門人数急増のため、長部村に建設されたもの。幽学はこの教導所を「改心楼」と名付けていました。この教導所建設が関東取締出役に目をつけられてしまったので、裁判で問題にされるのは致し方ない、その覚悟はせよとの意味を含めた高松氏の言葉を五郎兵衛は記録しています。

大原幽学の刑事裁判と「五郎兵衛日記」 - 法律事務所南斗のブログ

(大原幽学の刑事裁判と「五郎兵衛日記」について)大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」というものがあります。日記原本は...

goo blog




嘉永6年3月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ行く。正午、大原幽学先生が高松様と共においでになる。高松様は、大先生の身元引き受けのため、古家を買うとのこと。
(コメント)
公儀に対して身分を偽装してでも幽学を守ろうとする高松氏の決意は固く、幽学を引き受けるために中古の家を購入するとのこと。経済的に負担がかかりますが、それさえも厭わない高松氏の決意は現代からは理解しにくいですが、性学集団、ひいては村を守るためのものなのでしょう。

嘉永6年3月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行く。
大原幽学先生がこんなことを言われた。「自分の考えだけで物事の是非を決めてしまうのは、人に話しを聞く機会を忘れてしまう。いろんな考え方があるときは、自分の考えを押し通そうとすると間違いが生じやすい。誰かに聞いたというだけで、物事を決めるは愚かだ。よくよく考えて了見を定めていかなければなるまい。」
(コメント)
要約すると、「人のアドバイスを聞いた上で自分でよく考えて決断しなさい」というう内容。この時代の農民には大原幽学の言いまわしや、人柄の暖かさが心に刺さったことでしょう。

嘉永6年3月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
元俊医師は本日病気。宿で臥せっている。小生は中村屋で昼食を食べ、湊川の借家へ行く。義論集の読み合わせ。午後4時ころ宿(山形屋)に戻る。その後、元俊医師のために薬を取りに行く。
(コメント)
五郎兵衛と元俊は同郷(長沼村)で、同じ宿(山形屋)。元俊の動向は、五郎兵衛日記では頻繁にでてくるのはそのためです。本日、元俊は病気で臥せっています。五郎兵衛は元気で病気になった形跡がないのですが、元俊は割りと病気勝ちです。

嘉永6年3月30日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
本日も元俊医師は病気。蓮屋から人が来たので、病床で話合っていた。小生は正午ころ湊川の借家へ。
「忠恕」の意味。己にしないことは、人にもしないということと大原幽学先生から教わる。
(コメント)
元俊医師はまだ病気で臥せっていますが、話合いには同席できる状態。感染症ではなく、ストレスや疲労から体が弱っているのかもしれません。慣れない江戸での宿暮らしですから、無理もありません。ひたすら元気な五郎兵衛は大したものです。今日も大原幽学先生から教えを受け、日記に書き記しています。

嘉永6年に3月31日は存在しませんので(旧暦に31日はありません)、#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 はお休みです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする