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嘉永6年4月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年04月17日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年4月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年4月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師は今日も病気(三日目)。小生は湊川に立ち寄った後、皆と小石川で土普請。高松様が購入された古家にいずれ大原幽学先生が住むため。高松様も普請に参加され、夕方ころまで働く。湊川に戻って風呂に入り、山形屋に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
小石川には、高松氏が買ったばかりの古家があります。あまり整備されていないらしく、高松氏も加わって整備の工事。
高松氏は、大原幽学の身元引き受けを決意しており、弟子たちと共に汗を流しています。

嘉永6年4月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
早朝、湊川の借家へ。力蔵様がおいでになった。教えを書面で奉行所に提出したほうがよいのではないかと大原幽学先生と協議されていた。
帰りは本銀町に寄り、「ふらそこ」を取りに行く。日暮れ時に山形屋に戻る。 
(コメント)
・「力蔵様」は、高松力蔵。大原幽学の身元を引き受ける高松彦七郎の次男です。父親の高松彦七郎は、御家人で御小人目付として幕府に勤めていました。五郎兵衛日記で「様」の尊称が付されているのはそのためです。
 高松力蔵は安政4(1857)年から長崎海軍伝習所三期生となっています。このことは下記参考文献に記載されています。
参考文献:藤井哲博 『長崎海軍伝習所 十九世紀東西文化の接点』 中央公論社〈中公新書〉、1991年。
・五郎兵衛が本銀町に「ふらそこ」を取りに行ってます。「ふらそこ」=フラスコですが、ここではガラス製の首の長い徳利、酒瓶を意味すると思われます。江戸時代でもこのような外来語が既に入ってきており、五郎兵衛のような農家にも知られているのは興味深いです。

嘉永6年4月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
蓮屋に寄った後、小石川の古家で普請。藪を起こし、地形を決める。正午ころ仕上がる。中食を食べ、帰りに伝通院、駿河台等に立ち寄る。湊川で大原幽学先生から訴訟の心得を聞く。
(コメント)
古家の土地の普請は今日で終わり。この後は外構に移ります。「伝通院」は小石川にある浄土宗の寺で徳川将軍家の菩提寺。仕事を終えた後の遊山は楽しかったでしょう。

嘉永6年4月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ行く。夕方、磯部様(田安家代官)のところに行き、資料を写す。暮れに山形屋に戻る。
 (コメント)
以前は奉行所からの呼び出し待ちで、江戸見物ばかりしていた時期がありますが、最近は裁判準備の記事が続きます。本日は田安家代官の磯部寛五郎のところで、資料の写しの作成。田安家は荒海村を所領としており、大原幽学には好意的です。

嘉永6年4月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
昼前に湊川の借家へ。平右衛門らと著述の読み合わせ。昼過ぎ、兵右衛門らが来る。荒海村で綿を作りたいとのこと。
(コメント)
荒海村は、現在の成田市荒海。米とは別に綿を作ろうという多角化経営の話しが出始めています。大原幽学の弟子たちは、村の有力者が多いので、裁判に呼出されていない者も江戸に来て、今後の村の経営について話合いをしています。

荒海 · 〒286-0818 千葉県成田市

〒286-0818 千葉県成田市

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嘉永6年4月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
昼前に湊川の借家へ。大原幽学先生の話。「荒海村で綿を作りたいということだが、まあそれは良いであろう。若い者が四書を読みたいということだが、色情に走るのも怖いので、大学、中庸くらいは良いだろう。覚えが良いものは四書も読むがよい。だが、夕方までは仕事をしなければならないぞ。」
(コメント)
四書とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』であり、これを下総の農家の若者が読みたいというのですから、現代とは随分違います。色情(死語?)と四書とを対比させているのも面白い。当時の感覚が伺えます。

嘉永6年4月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
山形屋に兵右衛門らが来る。荒海村での綿作の話題。小生は、話しがよく飲み込めず、目を白黒させていたら、皆にそのことを指摘されてしまった。恥ずかしく思う。自己改革せねば。
(コメント)
やはりどうもこの日記の記述者五郎兵衛は、おっとりとしていて、皆のスピードについていけないようなところがあるようです。まあ、そこが五郎兵衛の良いところです。自己改革せねば、と真面目に日記に書いているところもかわいい。

嘉永6年4月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
大原幽学先生の話し。
「情けがなくては人を救うことができない。門人を勘当や破門したとしても、後で時が来たらどうにか救えないかと思うものだ。その者から気が離れるということはない。」
 (コメント)
大原幽学が門人たちのことを、大切に思っていたことがよくわかる言葉です。集団のトップにいるものとして、勘当や破門をすることもあるけれども、どうにかやり直すことができないかどうか、そこのところは常に考えており、情がない者には人を救うことができないのだと語られています。

嘉永6年4月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ行く。大原幽学先生の話し。「相手にあわせて話すことが大事である。言葉が静かな人には静かに話し、せわしない人にはせわしなく話しなさい。芝居のようだと思って、狂言を習うつもりで一生懸命修行しなさい。相手の心持ちがよいように心がけなさい。」
(コメント)
相手にあわせて話すことが大事というと、普通は内容のことかと思いますが、大原幽学は、話し方で合わせるということを言っています。静かな人には静かに話すのは良いと思います。しかし、せわしない人にはせわしなく話すというのはどうなんでしょうか…。

#ペリー来航
嘉永6年4月9日(1853年)
ペリー艦隊、上海を出港。琉球に向かう。
(コメント)
五郎兵衛日記は嘉永6年(1853年)をツイートしてますので、そのときのペリーの動きも随時お伝えします(日本への来航は6月3日)。


嘉永6年4月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ。平右衛門は下谷の奥山様のところに行ったまま、なかなか帰らず。ようやく日暮れころ帰ってきた。山形屋に戻るとき、平右衛門と共に帰り、今日の様子を聞いた。
(コメント)
五郎兵衛は公事宿(山形屋)に泊まっており、毎日打合せ拠点である湊川の借家へ行っています。五郎兵衛は借家に詰めていることが多いのですが、平右衛門は外に行くことも多く、外交好きな性格なのかもしれません。五郎兵衛にっては、宿と借家との往復は仲間との情報交換の貴重な機会。今日の帰り道もそのような場となったようです。



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