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海軍法務官ーシンガポール赴任後の高木文雄 〈元国鉄総裁〉

2023年03月30日 | 歴史を振り返る
海軍法務官ーシンガポール赴任後の高木文雄

(はじめに)
以前の記事では高木文雄 が海軍法務官の見習尉官であったときのことについて紹介しました。
今回は見習い期間を終えてからのことを紹介します。ネタ本は、前回同様日経『 私の履歴書( 経済人 30)』(2004年)です。

(シンガポールに赴任)
見習い期間を終えて、高木文雄はシンガポール(当時は昭南)に赴任します。高木の職名は、第一南遣艦隊軍法会議法務官兼第十六方面艦隊軍法会議法務官。
日本を離れるときは、これでもう日本には戻れないだろうと思ったとのことなのですが、軍法会議(海軍の裁判所)があるのは、セレター軍港の一角にある美しいところで、専属の中国人コックもいるというノンビリした場所だったそうです。
「仕事もさほど忙しくはなかった」とあり、終戦まで法務官としてどのような業務があったかは記載がありません。

(終戦後の業務)
高木はそのままシンガポールで終戦を迎えます。シンガポールにいた日本軍はイギリス軍に対して名誉降伏を行います。これは武装は解除するものの、日本軍の組織はそのまま維持しるというもの。つまり、軍内の秩序は自ら律することになるので、高木の法務官としての職務も維持されました。

(終戦後の上官殺人事件)
高木は海軍法務官見習尉官のときに、上官殺人事件を担当していますが、終戦後も上官殺人事件を担当します。ある兵が上官から虐待されており、それを恨んで上官を殺してしまったという事件。以前のブログ記事にも書きましたが(高木文雄の海軍法務官見習い期間)、上官殺人事件の法定刑は「死刑」のみ。戦争も終わっているし、何より上官の虐待があったのに、加害者を死刑にしてよいものか…。高木は悩んだあげく、「終戦後の事件であり、海軍刑法は適用されない。一般人にも適用される刑法をもって処罰する」との結論を導き、死刑は回避します。法の適用の問題として興味深いケースです(注)。

(新憲法の制定と海軍刑法)
法の適用といえば、新憲法(現行憲法)の制定も問題となりました。1947年5月3日、新憲法が適用になります。新憲法には「特別裁判所の設置を許さない」との規定があります(憲法76条2項)。軍法会議(軍の裁判所)は特別裁判所でしたから、新憲法の規定により法的根拠を失ってしまうのではないか、というのが問題になったのです。
復員局(陸軍省、海軍省が衣替えしたもの)は、「新憲法は未復員の将兵には適用されない」という解釈を取りました。これにより、戦後も軍法会議は従来の法規のもとで機能していたことになり、高木も法務官を続けることとなったのです。
高木は1947年10月にシンガポールを離れます。帰国した高木は大蔵省に入り、大蔵官僚としての道を歩みました。

(参考条文)
第七十六条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
② 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
(3項は略)

(注)
海軍刑法が廃止されたのは、1947年(昭和22年)5月17日です。廃止の根拠は「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く陸軍刑法を廃止する等の政令」(昭和22年5月17日政令第52号)です。本文で述べた上官殺人事件がいつ起こったのかは書かれていませんが、海軍刑法廃止よりも前の出来事であることが前提となっているようです。



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