南斗屋のブログ

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文政11年3月上旬色川三中「家事志」

2023年03月13日 | 色川三中
文政11年3月上旬色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年3月1日(朔)(1828年)庚子 雨
与兵衛が谷田部(現つくば市)から土浦に引っ越してきた。荷物は三駄。本日、長屋にかまどを立てたとのこと。妻子はまだ谷田部であとから土浦に来る予定。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の与兵衛は昨年8月半ばころ三中に酷使され(水戸や江戸に早朝から出張を命じられた)、その上9月には親が亡くなっていました。12月23日には、「当年限りで暇をもらいたい」と言っており、辞めたと思っていたのですが、なんと土浦に引越し(これまでは単身赴任だった模様)。三中と何らかの話し合いができたのでしょう。

文政11年3月2日(1828年)雨。昼より晴。
細井氏が柿岡(石岡市)から土浦に戻ってきた。家に寄ってくれたので、引き留めて泊まってもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏は川原代(現龍ヶ崎市)に住んでおり、2月下旬には三中のところに遊びにきて、所用で柿岡(現石岡市)に行っていました。帰り道に土浦に寄ったところ、三中に引き止められてしまいました。三中もよほど細井氏と合うのでしょう。

文政11年3月3日(1828年)快晴
・細井氏が本日帰った。帰り際に、別れを惜しむ歌を詠み交わした。
・入江氏が町方の役を免ぜられ、子息の郷助殿が同役を仰せつけられた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・細井氏は川原代(現龍ヶ崎市)に帰って行きました。別れ際にら歌を詠み交わしています。歌を詠むことが普通の時代らしい別れ方です。
・町方の役が交代。父親から子へと代替りしました。子息の郷助殿は三中と同世代で20代後半。

文政11年3月4日(1828年)晴
九つ時に与兵衛が谷田部(現つくば市)から妻子を連れてきた。中食をご馳走になる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛の妻子は谷田部(現つくば市)にいたのですが、今回土浦に引越してきました。今までは与兵衛が土浦に単身赴任をしていたようです。

文政11年3月5日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年3月6日(1828年)
(編集より)色川三中、本日も休筆です。明日から再開します。
#色川三中 #家事志

文政11年3月7日(1828年)
夕べからの雨がようやく上がって、晴れた。忙しい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日、一昨日と日記を書かなかったのは多忙が理由のようです。今日の日記もほとんど内容がありません。

文政11年3月8日(1828年)
入江親子が改名との触書。新たに町役となった入江郷助が、今後は入江全兵衛を名乗る。これまで入江全兵衛を名乗っていた父親は、入江呂右衛門となる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦の町方役人を務める入江家。入江郷助(息子)が当主となったため、「入江全兵衛」を名乗ります。父親は隠居となり、入江呂右衛門となります。
父親:入江全兵衛⇒入江呂右衛門
息子:入江郷助⇒入江全兵衛(当主)
3月3日条参照


文政11年3月9日(1828年)
日本橋本石町の新薬店三川屋善兵衛の代人太介が来た。扇子一対をいただいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代、薬種問屋は日本橋本町に多くありましたので、本石町の三川屋さんは新興勢力。三中に会いにきたのも、自分のところの薬を仕入れてもらいたいがための営業でしょう。

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インタビュー・コラム



文政11年3月10日(1828年)
日向亮元医師に70品ほど薬を作って送った。ぜひ流行の医師になってほしいものである。それまで万端の世話をしたい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
日向亮元は土浦出身で現在は江戸にいる医師。先日母親が亡くなり、土浦に戻ってきていました。三中は日向医師をバックアップしており、今回は薬品を送っています。
文政11年2月14日条参照


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