南斗屋のブログ

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矢口洪一元最高裁長官と海軍法務官

2023年03月09日 | 歴史を振り返る
(軍法務官とは)
 戦前の日本には、特別裁判所として、軍法会議というものが存在していました。「会議」という名前がついていますが、会議を行うのではなく、これで軍事の裁判所という意味になります。根拠法令としては、陸軍軍法会議法、海軍軍法会議法があり、いずれも1921(大正10)年成立、1922(大正11)年4月に施行されています。
 この軍法会議の裁判官役は、「判士」と呼ばれる武官(4名)と法務官という文官(1名)で構成されていました。武官は、法律のプロではありませんから、法律のプロは法務官のみということになります。検察官役も法務官が行いました。もっとも、検察官役を務めた場合は、その事件ではその法務官は裁判官役は務めず、別の法務官が裁判官役になります。
 法務官は検察官役、裁判官役が固定ではなく、ある事件では検察官役、別の事件では裁判官役というように、事件ごとにどちらかの役目を務めました。

(矢口洪一は海軍法務官の経歴あり)
最高裁判所長官を務めた矢口洪一(1920年- 2006年)は、海軍法務官の経歴があります。
1943(昭和18)年9月 海軍法務見習尉官
1944(昭和19)年3月 海軍法務中尉
1945(昭和20)年3月 海軍法務大尉
同年11月 復員

(学徒出陣と矢口洪一)
この背景には、学徒出陣(1943年10月)があります。
矢口洪一自身も、「司法省から司法官試補採用の内定の通知をもらったが、当時は何人も兵役の義務を免れることはできない。私は卒業と同時に2年現役の海軍法務官士官の道を選んだ。」と書いています(『最高裁判所とともに』)。
1943(昭和18)年10月、文科系の学生に対して、それまで兵役法で認められていた徴集延期の制度が廃止され、適齢期の学生たちは直ちに戦場に向かうことになりました。これがいわゆる学徒出陣です。矢口洪一はこの学徒出陣の影響を受けたため、司法官試補に進むことができず、海軍法務官に士官せざるを得なかったのです。

(海軍法務官は狭き門)
矢口洪一はあっさり士官できたように書いていますが、海軍法務官は狭き門でした。同期は35人しかおらず、検事総長になった安原美穗(1919年- 1997年)でさえ、法務官になることができませんでした。

(海軍法務見習尉官)
矢口洪一は、1943(昭和18)年9月に海軍法務見習尉官となり、横須賀海軍砲術学校で訓練を受けました。
「法務見習尉官になると、最初の四ヶ月、士官として恥ずかしくないように広い意味の躾教育があるわけです。横須賀にあった海軍砲術学校で講習員として軍隊の常識教育を受けました。」
教育の仕方については、次のように述懐しています。
「カリキュラムを組んで、次の一週間の日程はこうであるというカリキュラムがあって、それにしたがって教育があり、たとえば、軍艦の話というのがあると、隣の海軍工廠から技術士官が教えにきてくれるわけです。それは考えようによっては贅沢な話しです。それで最小限度の軍艦の復元力とか速力とか、大砲の話しなどをしてくれる」
聞きっぱなしではなく、一週間ごとに試験があり、合格点を全員が取らないと次の教科に進めない方式だったようです。

(佐世保鎮守府軍法会議)
矢口洪一は、1944(昭和19)年3月 海軍法務中尉となり、終戦まで佐世保鎮守府軍法会議に勤務しました。ここでの勤務については、前掲書では言及がありません。
軍法会議での法務官の日常がどのようなものであるかは興味のあるところなので、またどこかでそのような記事があったらブログにアップしたいところです。




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