(戦後の裁判所)
戦後、日本の裁判所がどのような状況にあったのかについて、まとめて論じられてあるものにいまだ出会えません。断片的まのもの繋げていくしかないのかなと思っています。
矢口洪一『最高裁判所とともに』(有斐閣、1993年)には、戦後すぐの大阪地裁民事部の様子が記載されていました。
(戦後の大阪地裁民事部はほとんど事件がなかった)
矢口洪一は元最高裁長官。
昭和18年から20年には海軍法務官の職にありましたが、同年11月に復員。司法官試補・司法修習生を経て、1948(昭和23)年1月には大阪地裁判事補となり、民事部に勤務となりました。矢口洪一は1949(昭和24)年3月まで大阪地裁に在籍しているのですが、この間に「ほとんど事件がなかった」「審理する事件がなかった」としています。
大阪地裁に京都から通勤した後、「裁判所で20分か30分法廷にいたら、それで一日よスケジュールが済んで、あとは家から持ってきた乏しい弁当を食べて、それで帰るということの繰り返しでした」というのです。
(民事事件がなかった理由)
民事事件がなかった理由について、矢口洪一は次の理由をあげています。
①戦前でいえば、1万円、2万円という事件は大きな事件であったが、戦後のインフレで価値がなくなってしまい、そんな金額では誰も相手にしなくなった。
②そもそも世の中がまともではないので、民事訴訟等というものが進むはずはない
一方、刑事事件はかなり事件数があり、「統制法のもとで経済事犯は沢山事件があつた」と述べています。
以前、「戦後すぐの司法修習生・新人弁護士の生活」という記事で、戦後すぐは国選事件の取り合いがあったというインタビューを紹介しましたが(下記)、民事事件で稼げないのであれば弁護士はそのようにしてでも食べる道を見出すほかなかったでしょう。
「中堅の弁護士も食えなかった。弁護士会の会長が”新人弁護士に国選を回してやれ”と言ったら、中堅の弁護士から不公平だと苦情がでた。相当の大家の中でも、新聞記事を呼んで警察の留置場に面会に行き、弁護士を自分に依頼しろと弁護届を取っていたという人もあるくらい」
また、次のように回顧している弁護士もいます(戦前は陸軍の軍法務官、戦後は弁護士になった原秀男)。
「独立しては見たけど、 ひどい目に遭っちゃった。事件を頼む人がいないもの。 大学の1年生から陸軍に入って 、戦地で 6年、復員してきて2年目の弁護士に仕事 頼む人なんて誰もいないですよ。 おまけに 当時はものすごいインフレ時代。 そもそも弁護士のやる仕事がない。 闇取引時代です 。正常な経済取引はないから民事事件は皆無 。あるのは 借家追い出し事件だけでした。」(原秀男『法の戦場』)。