高木文雄の海軍法務官見習い期間
(はじめに)
以前、矢口洪一元最高裁長官が海軍法務官の経歴を有していたことについてブログで紹介しました。
矢口浩一『 最高裁判所とともに』では、高木文雄(大蔵官僚・ 国鉄総裁)も 海軍 法務官同期である と書かれていました。そこで、高木文雄の経験談がどこかに書かれていないか調べたみたところ、日経『 私の履歴書( 経済人 30)』(2004年)に行き当たりました。以下、同書から紹介します。
(海軍法務官同期は多士済々)
矢口洪一や高木文雄が任官したのは 海軍 法務官二期生です。 総勢は 35名。 このうち最高裁判事が3人出ています。矢口洪一、 長島敦(注1)、奥野久之(注2)。矢口洪一の著作には、長島敦、奥野久之の名前は挙げられていませんでした。これは、同じ法曹の名前を挙げるのを自制したのでしょう。高木文雄は、戦後大蔵省に入省し、大蔵事務次官となってから、国鉄総裁となるなど、法曹界とはほとんど関係なく過ごしてきたので、その点の遠慮をしなかったと思われます。
(見習い期間中に上官殺人事件を担当)
高木文雄、矢口洪一らは1943(昭和18)年9月に海軍法務見習尉官に任官します。見習い期間は横須賀で過ごしています。見習尉官の教育訓練は、首都圏で行なわれていたことが分かります。
高木『私の履歴書』には「見習い勤務中に上官殺人事件を担当させられ、銃殺執行に立ち会うなど緊張した」という一文があります。
「担当した」というのは、見習尉官として、指導教官と共に案件処理を担当したということでしょう。法務官であるとはいっても、つい数ヶ月前までは学生です。高等文官試験を一回でパスした秀才でも、いきなり実務処理を一人でできるわけはありません。現代の司法試験をパスした後の教育期間である司法修習でも、指導教官と共に案件処理をしますので、おそらく同様の教育をしていたのではないかと思われます。
(上官殺人事件)
それにしてもいきなり上官殺人事件という重大事件を、卒業して間もない見習い期間に一部でも担当させていたというのは、恐れ入ります。もっとも、上官殺人事件というのは、海軍刑法では刑は一つしかありません。そうです「死刑」のみです。
海軍刑法
第六十一條ノ三 上官ヲ殺シタル者ハ死刑ニ處ス
「上官を殺した」という事実関係自体に争いがなく、死刑以外はありえないと指導教官が判断したから、見習尉官にも担当させることができたのでしょう。
また、上官殺人というのがそれほど珍しくはないと読み込むことも可能かもしれません。指導教官が見習尉官に教育をさせる手間を考えると、自分が経験したことのある案件で、処理の仕方が自分の中で確立している案件にするはずです。ほとんど発生しない事件は、処理の仕方が確立していないため、指導教官自ら手探り状態になりますが、そういう姿は見せたくないもの。とすれば、上官殺人事件というのは、それほど頻繁にというわけではないにしても、珍しくはなかったといえるのでしょう。
その一つの傍証として、先ほど引用した上官殺人の条文は、第六十一條ノ三という枝番であることもあげられます。枝番というのは、後から追加した条文でして、同条は
「(昭一七法三六・追加)」とあることから、昭和17年改正で追加されたものです。上官殺人が起こっていなければ、このような条文は追加しないので、法改正前には上官殺人が起こることが問題視され、この条文が追加されたのでしょう。
(死刑執行は銃殺)
高木文雄は「見習い勤務中に上官殺人事件を担当させられ、銃殺執行に立ち会うなど緊張した」と述べており、見習尉官のときに、早くも死刑執行に立ち会っています。死刑執行の方法は海軍刑法に規定があり、「銃殺」とされています。なかなかショッキングではあります。
第十六條 海軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ海軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス
(注1)長島敦は昭和16年京都帝大法科卒。海軍に入り終戦のときは法務大尉。伯父で戦時中の大審院長だった長島毅よ影響で司法官を志望(野村二郎著『最高裁全裁判官』)
(注2)奥野久之の海軍法務官の経歴は以下のとおり(奥野判例研究会『秋の蝉ー奥野久之最高裁判事の足跡』)。
1943(昭和18)年9月 海軍法務見習尉官
1944(昭和19)年3月 海軍法務中尉
同年9月 海南警備府臨時軍法会議法務官
1945(昭和20)年3月 海軍法務大尉
1946(昭和21年)4月 復員