南斗屋のブログ

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文政11年3月中旬・色川三中「家事志」

2023年03月20日 | 色川三中
文政11年3月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年3月11日(朔)(1828年)
雨。風もあって天気は悪いが、従業員の与市と共に谷田部(妻の実家)に出かける。道のほとりの桜ははや散り始めており、雨中落花といった様子。昼前に知人(宅三郎)宅により酒を飲み、夕方妻の実家に着く。酒を出されたので、夜中まで飲む。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦から谷田部(妻の実家)に向けて、春の雨の中を進みます。旧暦3月、桜は早くも散り始めています。谷田部に着いた後は宴会。だいぶお酒を飲んでいますね。明日の体調、大丈夫でしょうか。

文政11年3月12日(1828年)
飲みすぎて二日酔い。与市も同様。昼前まで寝てしまった。起きたら、妻の実家では酒を出してくれたので、また飲む。帰り道、知人(宅三郎)と共に土浦へ。宅三郎は土浦で婿入りするのだ。目出度いので、帰宅後も酒。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日夜中まで酒を飲んでいましたから、案の定二日酔い。三中だけでなく、従業員の与市もです。起きたら迎え酒。婿入りする宅三郎を連れて土浦に帰って、また酒。三中には珍しく宴会続きです。

文政11年3月13日(1828年)雨
土浦で婿入りする宅三郎を町の人に紹介しに、羽織袴で出かけた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日土浦に着いた宅三郎を町の人に紹介するため、雨の中、正装(羽織袴)で一緒に出かけています。三中は27歳(数え)なのですが、当時は20代でも家の当主となれば、このような役割を果たすことが求められていたのでしょう。

文政11年3月14日(1828年)
朝、親友の間原と隣主人、宅三郎のお祝いに来る。結婚した両家と共に酒を飲む。皆、興にのる。夕方にようやく散開。
#色川三中 #家事志
(コメント)
宅三郎(谷田部から土浦へ婿入り)のお祝いイベントは、今日が最高潮。両家が揃っているところをみると、結婚披露宴に当たるような日なのでしょうか。朝から三々五々集まり、夕方まで。形式は現代とはだいぶ違いますが、お祝いをする心は変わりません。

文政11年3月15日(1828年) 雨
入江氏が町役人を終えられたので、退職のお祝いに金二朱とわり酒一升を持っていかせた。夕方、隣主人と共に入江氏に挨拶。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入江氏は土浦の町役人を務めていましたが、3月上旬に終え、子息の郷助が同役を引き継いでいます(3月3日条)。宅三郎のお祝いイベントが一段落したからでしょうか、本日お祝いを贈り、挨拶に赴いています。


文政11年3 月16日(1828年)
妻子を土浦に連れてきた与兵衛の為に、高砂屋清左衛門宛に引請証文を書いた。
(引請証文の要約)
この度、与兵衛は妻子を引取り、土浦の中城町の奥井吉右衛門殿の長屋(高砂屋所有)を借りましたが、私たち(三中と叔父の利兵衛)が身元を引き受けます。
#色川三中 #家事志
(コメント)
妻子を連れてきた与兵衛の為の身元引受書。原文は長く、御公儀の御法度は勿論のこと当町の規則も守らせます、本人に問題があれば我々が足を運んで解決します、仏教徒に間違いありません、寺の請状は我々の方で保管していますから、必要ならばお見せします等と書いています。

文政11年3月17日(1828年)雨
釜屋伊右衛門から「13歳になる子どもを従業員にどうか」との書状が届いた。従業員はほしいが、この間初五郎(11歳)を雇って失敗したので、どうするか…。
#色川三中 #家事志
(コメント)
薬種商の事業は順調で、人手が足りないようです。知り合いから、13歳の子どもを紹介できるとの手紙が届きました。つい3ヶ月前ほど従業員をほしがって11歳の初五郎を雇って失敗しており(12月22日条)、今回どうするつもりでしょうか。


文政11年3月18日(1828年)
母が江戸に行くという話しは出ていたのだが、明日から行くことになった。昔、母が江戸見物に行ったときは、貸座敷を借りたり、今日は大平だ、今日は中条だとご馳走を食べ歩いたという。今回は地味な江戸行となる予定。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川家も昔は羽振りが良かったときがあるようで、母親は江戸に遊びに行き、かなりお金を使ったことがあるようです。グルメスポットの食べ歩きのことが記録されています。

文政11年3月19日(1828年)
母が江戸に向けて出立。利助が同行。今回の小遣いは金2両・銭800文とのこと。母親は以前は毎日芝居を見て、歌舞音曲を楽しみ、江戸から籠を乗り継いで土浦まで帰ってきたらしい。今回は慎ましい江戸行にならざるを得まい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の母親の以前の江戸での散財はすごかったようです。毎日芝居を見て、歌舞音曲に親しみ、帰りは全て籠で帰ってきた由。
江戸は一大消費地であり、現代よりももっと地方の人の憧れの的だったのかもしれません。

文政11年3月20日(1828年)
#色川三中 #家事志
(編集より)本日、三中先生は休筆です。



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戦後の民事裁判は開店休業状態

2023年03月20日 | 歴史を振り返る
(戦後の裁判所)
戦後、日本の裁判所がどのような状況にあったのかについて、まとめて論じられてあるものにいまだ出会えません。断片的まのもの繋げていくしかないのかなと思っています。
矢口洪一『最高裁判所とともに』(有斐閣、1993年)には、戦後すぐの大阪地裁民事部の様子が記載されていました。

(戦後の大阪地裁民事部はほとんど事件がなかった)
矢口洪一は元最高裁長官。
昭和18年から20年には海軍法務官の職にありましたが、同年11月に復員。司法官試補・司法修習生を経て、1948(昭和23)年1月には大阪地裁判事補となり、民事部に勤務となりました。矢口洪一は1949(昭和24)年3月まで大阪地裁に在籍しているのですが、この間に「ほとんど事件がなかった」「審理する事件がなかった」としています。
大阪地裁に京都から通勤した後、「裁判所で20分か30分法廷にいたら、それで一日よスケジュールが済んで、あとは家から持ってきた乏しい弁当を食べて、それで帰るということの繰り返しでした」というのです。

(民事事件がなかった理由)
民事事件がなかった理由について、矢口洪一は次の理由をあげています。
①戦前でいえば、1万円、2万円という事件は大きな事件であったが、戦後のインフレで価値がなくなってしまい、そんな金額では誰も相手にしなくなった。
②そもそも世の中がまともではないので、民事訴訟等というものが進むはずはない
 一方、刑事事件はかなり事件数があり、「統制法のもとで経済事犯は沢山事件があつた」と述べています。

以前、「戦後すぐの司法修習生・新人弁護士の生活」という記事で、戦後すぐは国選事件の取り合いがあったというインタビューを紹介しましたが(下記)、民事事件で稼げないのであれば弁護士はそのようにしてでも食べる道を見出すほかなかったでしょう。
「中堅の弁護士も食えなかった。弁護士会の会長が”新人弁護士に国選を回してやれ”と言ったら、中堅の弁護士から不公平だと苦情がでた。相当の大家の中でも、新聞記事を呼んで警察の留置場に面会に行き、弁護士を自分に依頼しろと弁護届を取っていたという人もあるくらい」

また、次のように回顧している弁護士もいます(戦前は陸軍の軍法務官、戦後は弁護士になった原秀男)。
「独立しては見たけど、 ひどい目に遭っちゃった。事件を頼む人がいないもの。 大学の1年生から陸軍に入って 、戦地で 6年、復員してきて2年目の弁護士に仕事 頼む人なんて誰もいないですよ。 おまけに 当時はものすごいインフレ時代。 そもそも弁護士のやる仕事がない。 闇取引時代です 。正常な経済取引はないから民事事件は皆無 。あるのは 借家追い出し事件だけでした。」(原秀男『法の戦場』)。



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