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嘉永6年3月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年03月23日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年3月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年3月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記
午前9時ころ湊川の借家へ行く(元俊医師は行かずに宿で書き物)。大原幽学先生は今日はご機嫌で、先生の奢りで宴会。そのため湊川に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
ここのところ、大原幽学は小言ばかりが目立っていましたが、なぜか今日は上機嫌。宴会が夜まで続き、しかも全部大原幽学の奢り。どういう心境の変化かわかりませんが、五郎兵衛は大いに楽しんだようです。

嘉永6年3月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昨日は宴会で湊川の借家に泊まってしまった。元俊医師らが湊川の借家に午前9時ころ来る。日暮れに元俊医師らと宿(山形屋)へ帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日の大宴会で五郎兵衛はおそらく二日酔いにでもなったのでしょう。湊川の借家に泊まったため、朝は遅く、夕方まで何もしなかったのかもしれません。五郎兵衛がしたのは、日暮れに山形屋に戻ったことだけの簡潔な記事です。

嘉永6年3月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記
午前11時ころ湊川の借家へ。元俊医師は京橋に買い物に行ってしまった(湊川には来ず)。今日も何もなく終わると思ったら、午後8時ころになって奉行所から、明日出頭せよとの呼び出し。湊川に泊まって、明日の準備。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日、奉行所から呼び出しがありました。呼び出しの連絡はが来たのは午後8時。これで明日の朝には出頭しなければならないのですから、大変です。奉行所での調べがなかなか入らなかったり、呼び出しが夜遅くであるのは、事務が渋滞して奉行所も忙しいからかもしれません。

嘉永6年3月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝に一度宿(山形屋)に戻ってから、午前9時、山形屋の下代、重吉の案内で奉行所へ。着届を提出し、腰掛で待機。午後1時呼込。我々は菊地様のお取り調べを受ける。先祖株組合関係の資料の提出を要求された。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日呼び出しがありましたので、奉行所に出頭。公事宿の従業員(下代)が案内をしてくれます。奉行所へ行き、着届⇒腰掛(控所)での待機。午前中はひたすら待たされ、午後1時にようやく呼出されましたた。調べを担当した「菊地様」は与力でしょうか。

嘉永6年3月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ行き、昼食。奉行所へ提出する資料につき話合い。夕方、荒海村(成田市)の平右衛門らが湊川に来。「領主(田安家)のお代官様に奉行所からの要求をご報告した」とのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日の奉行所での取調べで先祖株組合関係の資料の提出を要求されたので、どのように資料を作成し、提出するのかの打合せ。荒海村組は、領主の田安家に報告をしており、田安家もこの裁判にかなりの関心を持っていることがわかります。

嘉永6年3月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記
午前9時ころ、湊川の借家へ行く。大原幽学先生から、「まず、心法を立てるべきである」とのお話しあり。「五郎兵衛はとにかくのろいのだから、何事も素早くやるのが心法だ。客にご馳走するときに、料理の支度の内容を客に分かるように喋ってはいかぬ。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛ののろさや大らかさは天然であったようです。大原幽学からは以前ものろさをいわれてますが、今日もまた指摘されてしまいました。お客様への接待をするのに、料理支度をべらべらと喋ってしまっては、接待にはならないので、注意されるのももっともです。

嘉永6年3月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ行き、風呂に入る。一同で先祖株帳面を調べる。荒海村の平右衛門が夕方に来て、別の話しになったが、それが終わるとまた帳面の調べ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も裁判の作戦会議のために、対策本部(湊川の借家)へ。ほぼ一日中、奉行所に提出する先祖株帳面を調べ、提出資料について検討しています。これまでの江戸見物のノンビリした雰囲気から一転し、緊張した様子が伝わります。

嘉永6年3月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ。先祖株帳面の調べの続き。午後4時、蓮屋へ行き提出する資料の打合せ。そこへトラブル発生。乱心の母親の駆け込みに、一同で取り押さえて落ち着かせる。午後8時、奉行所から、明日出頭せよとの呼び出しあり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日も奉行所提出資料の検討。蓮屋(荒海村の者が宿泊)での打合せの際には、乱心の母親が駆け込んで来るというトラブルが発生しました。全員でその母親を取り押さえて、宥めすかしたようです。そんなときに、奉行所から出頭命令。忙しいときには、忙しいことが重なるようです。

嘉永6年3月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記
午前9時、下代の重吉の案内で奉行所へ。着届を提出し、腰掛で待機。午後2時まず大原幽学先生が呼出される。その後、一同呼び出される。奉行所「先祖株組合関係の資料に数字の間違いがあるので、修整して提出せよ。近々呼び出すので、本日は帰れ」と。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日まで懸命に奉行所提出資料の検討をしてきたのですが、数字の間違いがあって、再提出を余儀なくされてしまいました。明日からもう一度やり直しです。

嘉永6年3月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家に行き、先祖株組合関係の資料の検討。午後10時ころまで検討するが、終わらず。その後、宿(山形屋)へ戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日の奉行所からの指摘を受け、一同で先祖株組合関係の資料の再検討。夜遅くまで検討しましたが、終わりません。


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