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嘉永6年3月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年03月16日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年3月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年3月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家に行く。幸左衛門から「昨日から幽学先生が少々体調が悪く、養生のためにと鯉を差し上げたのだ。ところが、先生は『どうも鯉のハラワタは消化に悪いようだ』と仰っしゃる。そこで、鯉はもう差し上げないことにした」という話しを聞く。また、幽学先生は幸左衛門にもグチを言っているようだ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
江戸に呼び出しを受けて1ヶ月以上が経ちますが、いまだに奉行所から呼び出しはなく、放っておかれた状態にあります。見通しの経たない中で、大原幽学のストレスもかなり溜まっているとみえ、弟子がよかれと思って鯉を差し上げれば、消化に悪いといい、さらにグチまでいっています。

嘉永6年3月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記
蓮屋に行く。昼食は蓮屋でとる。蓮屋に泊まっている者が気前よく寿司を奢ってくれた。
元俊医師と平右衛門が話し合っていたが、どうも意見が一致しない。八つ時には太次兵衛らが蓮屋に来たので、道友の様子を聞く。その後、太次兵衛と山形屋に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
元俊医師と平右衛門は、どちらも大原幽学の高弟です。なにやら議論をしているようですが、意見が一致せず。五郎兵衛はこれを横で見ながら、昼食の寿司に舌鼓を打ったり、仲間の様子を聞くなどしています。ストレスが溜まらないような過ごし方です。

嘉永6年3月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記
五つ時に湊川の借家に行き、その後、大名のご登城の様子を見物。御老中阿部様のご登城のときには、大名・旗本はみな阿部様のお上りを拝んでいて壮観であった。
その後、湊川に戻って風呂に入った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、本日は江戸城への大名登城の様子を見学に行っています。当時の老中首座は阿部正弘(1819~1857)。老中首座の登城の際には、大名・旗本がみなこれを拝しており、壮観さを五郎兵衛も日記に記しています。

嘉永6年3月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記
喜太郎らと、浅草門跡前の入歯屋に行く。店が手間取っていて時間がかかるようだったので、自分一人で上野の桜を見物に。花見客が大勢いた。湊川の借家に顔を出した後、山形屋に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
浅草門跡前の入歯屋には、以前は別の者と同伴していた五郎兵衛でしたが(2月23日条)、評判を聞きつけたのか、他の者も同じ入れ歯屋に行っています。折りしも桜の時期。上野の桜はこの時代にも既に有名だったようです。


嘉永6年3月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家に行った。喜太郎は浅草の入歯屋へ、太次兵衛は書物を買いに日本橋へ行った。私も仲間と散歩。幽学先生から甚右衛門に渡す書き物をいただき、山形屋に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
喜太郎は浅草の入歯屋へ。昨日は五郎兵衛が同行していましたが、道を覚えたのでしょう、今日は一人で行ってます。五郎兵衛は、他の仲間と散歩。ピンチヒッターの差添役であった甚右衛門への書き物(2月28日条参照)を大原幽学から預かって、宿に戻りました。


嘉永6年3月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家に行く。大先生(大原幽学)のところへ、足川村の孝之助の母親から歌が送られてきた。大先生は「歌の意味が本当に素晴らしい。このような心境に到達するのは容易ではない」と感心し、自ら返歌をしたためた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
支援者からの手紙(歌)に大原幽学が感心したエピソードです。「足川村」は現在の千葉県旭市足川。大原幽学の拠点であった長部村(旭市長部)から10キロほど離れております。大原幽学の影響が様々な地域に及んでいたことがわかります。

長部 to 足川

長部 to 足川




嘉永6年3月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ行く。元俊医師は湊川には行かず。「2、3日休息したい」とのこと。小生は七ツ半(午後5時)に宿に戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本件裁判で長沼村(成田市長沼)から呼出されたのは、元俊医師と五郎兵衛の二人で同じ公事宿(山形屋)に泊まっています。そのため、元俊医師への言及は多く、本日の記事では、元俊医師が休息をとっていたことが記されています。疲れているのでしょうか?五郎兵衛は相変わらず湊川に通っています。

嘉永6年3月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師は、「2、3日休息したい」といって湊川に来ない予定だったが、本日、又左衛門が「幸左衛門が病気なので来てほしい」と言って来たので、一緒に湊川の借家に行く。元俊医師「大したことはない。静養しておれば治るよ」とのこで、一同安心。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
仲間が病気となり、元俊医師にみてもらったところ、特に問題ないとの診断に一同ホッとしています。江戸に出てきてストレスがかかり、病気になる者が多い中、仲間に医師がいるのは心強いことです。

嘉永6年3月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に湊川の借家へ行く。本銀町に薬を取りに行き、徳島町で白雪糕を、丁子屋でタバコを買う。湊川に戻ったのは日の入り前。既に元俊医師は宿へ戻ったようだ。小生も宿に戻ろうとしたところへ、大先生(大原幽学)から「のろすぎる」といわれてしまった。
小生の帰りがけに良左衛門が外まで出てきて、「そんなことで大先生(大原幽学)に気をつかわせないで、もう少し気をつけてください」とのお叱りを受けた。時々刻々顧みて慎まなければならない。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日の五郎兵衛は、いろんなところでお買い物。薬のほかは、白雪糕とタバコの嗜好品です。湊川の借家に戻ったのは日の入り前とのんびりとしたもの。大原幽学もあまりの五郎兵衛の手際の悪さに「のろすぎる」と言わざるを得なかったようです。高弟良左衛門も同じ考え。五郎兵衛のノンビリさがよく表れています。

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嘉永6年3月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門たちと連れ立って、金毘羅参詣に行く。その後に湊川の借家へ。大原幽学先生からは、金毘羅参詣などしているヒマがあるのかと小言をいわれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛、仲間と共に金毘羅(こんぴら)参詣。金毘羅大権現は、虎ノ門の近くの丸亀藩江戸上屋敷に四国の金毘羅から勧請したもの。江戸時代の後期には、水天宮(久留米藩)と並ぶ2大人気スポットになっていました。

【知られざる東京】丸亀藩上屋敷の金毘羅大権現(虎ノ門金刀比羅宮) | 東京とりっぷ

江戸時代、江戸市中にあった大名屋敷には各藩なだたる寺社の分社・分寺が勧請されていました。月に1回の縁日を決めて公開されて人気を博したのが、金毘羅(こんぴら)さんで...

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