江戸の形場が小塚原と鈴ヶ森にあったということは有名ですが、その他の地域はどうなっていたのでしょう。
重松一義『大江戸暗黒街』
(柏書房、2005年)
題名はおどろおどろしいですが、重松先生は大学教授などを歴任されており、非常に真面目な本です。
この本に江戸以外の形場の一覧が掲載されています。
現在の千葉県の範囲内ですと、
佐倉藩江原刑場
関宿藩納谷刑場
の2箇所です。
〈佐倉藩江原刑場〉
佐倉藩江原刑場は、佐倉市のホームページで紹介されています。
「成田道の道筋に面したここは佐倉城の西端にあたり、八町森と呼ばれ、佐倉藩が罪人の処刑を行った刑場跡です。」
江戸の小塚原や鈴ヶ森と同様、街道に面していることがわかります。江戸時代の処刑は公開ですから、街道沿いの町から外れた場所が適地として選ばれたのでしょう。
〈関宿藩納谷刑場〉
関宿は現在野田市となっていますが、野田市のホームページには関宿藩納谷刑場は言及されていないようです。当地は心霊スポットとして著名なようで、その手のサイトで結構紹介されています。これらのサイトによると、付近には南妙法蓮華経の題目が刻まれている享和元年(1801年)の石碑があること、野田市教育委員会の掲示板が設置されていることが分かります。
重松先生の著作(『大江戸暗黒街』)では、千葉県内ではこの2ヶ所しか記載がありません。しかし、江戸時代には各藩で死刑が行われていたはずです。他の藩にも常設の刑場があったが分からないのか、そもそも常設の刑場というものがなかったのかという点は同書にも言及がなく、わかりません。
仙台藩の刑場について考える上で参考となるのが、吉田正志のいう「所仕置き」です。
死刑は藩が設置した処刑場だけで行われるのではなく、犯罪発生地や死刑囚の住んでいた村などでも行われておりました。
仙台藩では、「その所にて火罪」等といっていたので、吉田先生はこのようなものを「所仕置き」とネーミングされています(『仙台藩の罪と罰』121頁(慈学選書、2013年))。
仙台藩の元禄時代の死刑判決の執行の多くは、所仕置きで行われており、吉田先生は「近世前期では所仕置きこそ死刑の中心だったのではないか」と書かれています。
そうだとすれば、刑場だけではなく、所仕置きにも注意しなければなりませんし、刑場で行われるものと所仕置きはどのような振分けがなされたのかという問題も生じてきそうです。