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文政11年1月中旬・色川三中「家事志」

2023年01月23日 | 色川三中
文政11年1月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年1月11日(1828年)
<行商中>今日は梶山(鹿嶋市)を出発して、居合(鹿嶋市)で泊。居合は先月まで従業員だった初五郎が住んでいるところだ。どうしているかと思っていたが、なんと今月4日に、餅と蛤とを食べて中毒で亡くなってしまっていた!まだ12歳なのに。あわれな初五郎。
#色川三中 #家事志
(コメント)
先月まで従業員だった初五郎(12歳)が急死。居合(鹿嶋市居合)の松岡さんの紹介で三中の従業員となったのですが、おねしょをするのでわずか十日余りで、居合に戻されてしまいました(前年12月22日条)。


ストレスでおねしょしたのかなと思っていましたが、このときから体調が悪かったののかもしれません。三中は「餅と蛤での中毒」と書いていますが、そんなので中毒になるのか疑問です。それにしても、人の命とはなんとはかないことでしょうか。


文政11年1月12日(1828年)晴
<行商中>居合(鹿嶋市居合)を出発し、山之上(鹿嶋市山之上)へ。ここでも歓待を受け、ご馳走がでる。鹿島(鹿嶋市宮中)まで行き、同所泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は、昨日今日と現在の鹿嶋市周辺を営業しています。山之上は鹿島神宮からもほど近い場所で、前回の行商でも行っています(前年7月23日条)。各地で歓待を受けるほど、三中の営業は好調のようです。三中もそれを意識して日記に書き留めているものと思われます。


文政11年1月13日(1828年)寒風異常
<行商中>鹿島を出発。鹿島神宮では、おものみ様を8年ぶりに参詣す。19歳のとき以来。この間いろいろなことがあったと一瞬思ったが、今は営業に忙しくそんな感慨に浸っている暇はない。永田に行く。ここでも歓待を受ける。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日も三中は歓待を受けています。連日接待、営業で三中も忙しいようです。8年ぶりの参詣でおもうところがあったようですが、営業に忙しく感慨にふけっている暇はないと記しています。
「おものみ様」は、物忌様のこと(家事志の翻刻者の解説による)。場所としては鹿島神宮の跡宮のことをいうようです。

文政11年1月14日(1828年)
<行商中>永田を出発。朝、船で霞ヶ浦の渡しをわたる。景色非常によし。潮来(潮来市)では玄春さんが乳岩を切り出したといって見せてくれた。富田(行方市富田)で泊。ここでも歓待を受ける。
#色川三中 #家事志
(コメント)
鹿島神宮の近くには渡し場があったようです。鹿島神宮の西の一の鳥居というのが霞ヶ浦に面したところにあるので、このあたりにあったのかもしれません。前回行商では強風のため渡船がすぐできなかったのですが(前年7月25日条)、今回は穏やかに晴れ、景色を見る余裕もあります。本日も歓待を受けています。三日連続。


文政11年1月15日(1828年)
<行商中>富田を出発。鹿島(鹿嶋市宮中)から玉造(行方市玉造)に戻ってきた。同所泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
玉造は三中が行商に出ると必ず宿泊するところで、今回の行商でも最初の方に泊まっています(1月7日条)。玉造は霞ヶ浦に接しており、水運の町であったことと関係がありそうです。明治の町村制施行以来、玉造町でしたが、2005年9月2日、麻生町・北浦町と合併し行方市となりました。

文政11年1月16日(1828年)
<行商中>西風。玉造を出発し、府中(現石岡市)に足を伸ばす。同所泊。今回は府中や岩間(笠間市)方面まで営業を行う予定。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「府中」は国府のあったところという意味ですので、国名毎にこの地名があります。常陸国の国府は石岡市。前回行商(7月)では府中に来ていないので、今回は府中、岩間(笠間市)方面への営業が狙いです。

文政11年1月17日(1828年)
<行商中>昨日は府中(石岡市)に泊まっり、本日も同所に泊。夕方には雨が雪に変わった。明日から同行者を茂兵衛に変える(これまでは与兵衛)。
叔父からの書状届く。従業員の浅吉が相変わらずけしからぬ振る舞いをしているらしい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は、昨年の日記で「従業員浅吉の科」という愚痴めいた記事を書いていましたので(10月14日条)、解雇していたのかと思っていましたが、まだ雇用していたようです。三中のいない間に悪さをするとは懲りない浅吉です。


文政11年1月18日(1828年)
<行商中>府中(石岡市)を出発し、茂兵衛を連れて岩間(笠間市)に行く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
岩間は現笠間市。2006年までは岩間を中心に岩間町が存続していましたが、合併により岩間町は消滅。「岩間」の地名も消滅してしまいましたが、駅名などにその名が残っています。

岩間駅 - Wikipedia



文政11年1月19日(1828年)
<行商中>手賀宗仲方で泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「手賀」は現在の行方市手賀のことでしょうか。当時当たり前のことは日記にはあっさりと書かれるものですが、後の人間が解読していくのはなかなか大変です。

2024/03/10追記
「手賀宗仲」の意味がわからず、当時のコメントでは、現行方市手賀か?と書きましたが、家事志を読み進めて行きましたら、文政12年5月22日条に「片野村の手賀宗仲老死去す」との記事がありました。片野村は、現石岡市片野ですので、同村に「手賀宗仲」という人物がおり、そこに泊まったという意味になることがわかりました。


文政11年1月20日(1828年)
<行商中>手賀方を出発し、六つ過ぎ(午後6時)に土浦に帰宅。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦に帰宅し、行商終了。今回の行商ではあちこちで歓待を受け、前回以上の成果を得ているようにも見受けられます。もっとも、日記の記載は淡々としており、前回行商時(昨年7月30日条)の高揚した様子とは趣を異にしています。



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