南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

市ヶ谷刑務所又は東京監獄

2022年10月14日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
 先日、大正時代の吹上佐太郎死刑囚についてブログ記事を書きましたが(関東連続少女殺人事件の吹上佐太郎の辞世句)、吹上死刑囚は市ヶ谷刑務所で死刑を執行されたのでした。市ヶ谷刑務所とはどこにいつまであったのかと疑問に思いましたので、調べてみました。

(東京監獄⇒市ヶ谷刑務所)
 市ヶ谷刑務所のあった場所は、現在の新宿区余丁町、富久町あたりです。 
 「監獄」といわれていたものが、「刑務所」という名称に変更になったのは大正期からであり、市ヶ谷刑務所が「刑務所」と呼ばれるようになったのは、1922(大正11)年です(本年でちょうど百年)。「市ヶ谷刑務所」と呼ばれる前は、「東京監獄」と呼ばれていました。市ヶ谷刑務所の前身の「東京監獄」は1903(明治36)年に鍛冶橋から富久町に移転してきたのです。
 市ヶ谷刑務所には既決囚も収容されていたようですが、未決囚の拘置がメインであり、今でいう「拘置所」の機能を果たしていました。市ヶ谷刑務所は1937(昭和12)年には、巣鴨(現豊島区東池袋)に移転し、移転後は「東京拘置所」と改称されています。なお、この東京拘置所は1971年に葛飾区小菅に移転し、現在に至っています。

(市ヶ谷刑務所では死刑が行われていた)
 東京監獄時代にも死刑執行が行わており、幸徳秋水らの大逆事件の死刑執行は同所で行われています(1911年)。
 また、 はじめにで言及した吹上佐太郎の死刑執行も市ヶ谷刑務所で行われれています(1926年)。
 刑務所の跡地である富久町児童遊園内に刑死者慰霊塔があるのはこのような経緯によります。
 この慰霊塔については、森長英三郎弁護士が次のように書き記しています。
「ここ(注東京監獄・市ヶ谷刑務所)に東京控訴院管内の死刑場があり、明治37年から昭和12年までの間に約300名が執行せられている。戦後その刑場跡が児童遊園となっていたので、私が日本弁護士連合会(日弁連)へ持ち込み日弁連主催で会員から浄財を集めて、そこに元日弁連会長円山田作揮毫の処刑者慰霊塔を建てた。その除幕式は昭和39年7月15日に行われた」

(三島由紀夫と市ヶ谷刑務所)
 三島由紀夫は13歳のときに「酸模(すかんぽう)」という初めての小説を書いており、この小説の冒頭で市ヶ谷刑務所を「灰色の家」と呼び、次のように描写しています。
「塀は灰色で、それから大きい門柱も、所々に出っ張って、遠くから見える棟々の屋根も、何も彼も灰色をしていた。恐らく門の中の広い広い庭も灰色の空気に満たされていたことであろう。そうで無いものと云えば、黒く冷たい鉄製の大きな門だけだった。」
 三島由紀夫は、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷四丁目22番)で生まれており、市ヶ谷刑務所はそれほど遠くはありません。

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文政10年10月上旬色川三中「家事志」

2022年10月13日 | 色川三中
文政10年10月上旬色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年10月朔(1827年)晴
私の本名は「英明」というが、鹿嶋の神にお伺いしたら、古人に同名のやんごとのない方がおられるとのこと。「英名」の名は恐れ多く、去年から「央明」とし、英の字の冠を抜いて書いている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「色川三中」の「三中」は号。本名(諱)は「英明」。この名前について鹿島神宮にお伺いをたてたら、同名の貴人がいたのだそうです。そこで、英の字の草カンムリを抜いて「央明」としたという記事。現代は名前を簡単に変えることはしませんが、江戸時代はこのような感じで、好きなように名乗っていたのでしょう。

文政10年10月2日(1827年)晴
(土浦藩の)殿様が神龍寺にお入りになった。神龍寺は以前神立村(土浦市神立)にあったものを、12名の者が遷座させたのである。寺を移したところ、土地のことについて公事(訴訟)がおき、12名は変わるががわる江戸に出て対応した。訴訟にかかる費用は多額にのぼったので、その後困窮したとのことである。このことは寺の記録に残っていると、それを見た人が話をしてくれた。暇があれば自身で調べたいのだが、時がない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
神龍寺は土浦市にある寺。三中の墓はこの寺にあります。神龍寺の遷座とそれに端を発した公事(訴訟)の記事。訴訟にかかる費用が多額になるのは、江戸での滞在費がかかるうえに、その間は仕事ができないことに原因があります。長期間にわたったため、訴訟関係費用が膨らんだのでしょう。

文政10年10月3日(1827年)
【編集より】本日三中殿は日記をお書きになりませんでした。持病がでてしまったようです(明日には再開予定)。
#色川三中 #家事志

文政10年10月4日(1827年)曇
明日はわしの宮の角力、明後日は田中の角力である。田中の角力は例年9月15日に行われていたが、本年から連日行うような日程となった。谷田部や川原代にいる親戚にその旨いってきかせたところ、必ず見に行くというので、本日迎える用意をした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「わしの宮」は、現在の土浦市東崎町にある鷲(おおとり)神社のことか。「田中」は土浦の地名。土浦の町の近隣で相撲が盛んに行われていたようです。もともとは別日程だったものを連日にしたのは、集客のためなのかもしれません。谷田部や川原代という歩いて半日はかかる場所からも、「必ず見に行く」との連絡が入っています。

文政10年10月5日(1827年)曇
わしの宮の角力が行われた。親戚が来るというので、料理を用意したが誰も来ず。夕方になってようやく、木村源三郎とその新宅の次男が来た。木村はカモ一つがい、新宅次男もカモ一羽を土産として持参した。丁寧なことである。夜は、一晩酒を飲んで過ごす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
わしの宮の角力が行われましたが、予定していた人が誰も来ないという事態に(ドタキャン?)。せっかく作った料理が台無しです。夕方ようやく来た親戚の土産はカモ。土産物は買って持っていくものではなく、その辺で取れたものでという感覚です。

文政10年10月6日(1827年)曇折々小雨
田中の八幡社で角力を見物する。先日例の持病がでてしまった。病み上がりだが、客人と同道した。事前に店の者を遣わして、畳や布団を敷いて場所を取らせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は今月3日に持病がでてしまい、日記も書けなかったほどでしたが、本日は客人と同道し、相撲見物に行けるまでに回復しました。見物客が多い行事に場所取りをするのは、今も昔も変わりませんが、その方法が畳や布団を敷くというのが現代からみると新鮮です。

文政10年10月7日(1827年)快晴
昨夜四つ(午後10時)ころ、店の佐助が塀に小便をし、これを土浦藩の生駒様、小崎様にとがめられた。佐助が口論をしたので、隣主人がとりなしてくれた。今朝、佐原の酒二升を生駒様、小崎様に遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の佐助が立ち小便をし、土浦藩の藩士に咎められて口論という事態が起きました。その場はとりなしてくれる者がいて事なきをえたので、三中は翌日酒を役人に届けています。「佐原の酒」(佐原は現在の千葉県香取市)とわざわざ書いており、佐原の酒は上物だったようです。

文政10年10月8日(1827年)庚申 晴
五日前に吉兵衛を日帰りの仕事に出したのに、いまだに帰ってこない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日の佐助に続き、従業員のトラブルです。五日前に吉兵衛を日帰り出張に行かせたのに、まだ帰ってこないというのです。吉兵衛は一度暇を出されて、その後詫びを入れて雇用継続となった身です。今回無断欠勤ですから、ただでは済まないでしょう。



文政10年10月9日(1827年)
・吉兵衛が出勤していない件、本日早朝、吉兵衛の親を呼び出し、厳しく言渡した。
・本日、ご城内で軍事調練があり、藩主も上覧されたとのこと。軍師は大久保要様。両軍合わせて400人。鉄砲を撃ち合わせ、次いで弓、槍。互いに秘術を尽くした面白いものであったことであろう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代は平和であったとはいえ、武士はやはり武人なので、軍事調練があります。閏6月29日条にも軍事調練の記載があり、このときは見物可でしたから、今回も同様だったのでしょう。三中自身は見に行っていませんが、伝え聞いたことを書き記したものと思われます。


文政10年10月10日(1827年)
・田中清吉が夜になってから来たので、吉兵衛のことを申し渡した。
・香取時之助が七兵衛という者を連れてきた。15歳という。直ちに「茂吉」と改名して呼ぶこととした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・従業員吉兵衛が日帰り出張後バックレてしまいましたので、その後始末が続きます。昨日は親を呼び出しましたが、本日は仲介人である田中清吉に対して話しをしました。
・その一方で新たな従業員がやってきています。


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茂原市の近世の名主 高師村宇佐美家と立木村高橋家

2022年10月10日 | 歴史を振り返る
令和4年度 第1回テーマ展 「近世の名主 高師村宇佐美家(たかしむら うさみけ)と立木村高橋家(たちきむら たかはしけ)」に行ってきました。
展示期間
 令和4年9月17日(土曜日)~12月18日(日曜日)

茂原市の郷土資料館の正式名称は、「茂原市立美術館・郷土資料館 」で、美術館と郷土資料館が同じ建物内にあります。企画展ではなく、テーマ展と名付けているのは、常設の部屋の中の一角の展示スペースを使っているからのようです。常設展の展示コーナー替えという感じ。料金は無料です。

さて今回のテーマ展では、茂原市にあった村の名主を務めた二つの家がピックアップされています。高師村(現茂原市高師)の宇佐美家及び立木村(現茂原市立木)の高橋家です。

立木村の高橋家はこれまで同資料館でもしばしば取り上げられており、2000年には〈立木村名主高橋家文書にみる領主・名主と村〉という企画展が行われ、同名の図録が出版されています。また、2018年度には〈鶴枝の豪農 高橋家の人々〉というテーマ展も行われています。これらの企画・立案は、岸本洋岳学芸員が行っています。

もう一方の名主である高師村の宇佐美家ですが、初めて聞きました。「高師村の宇佐美家」でネット検索しても、あまり出てこないので、やはりこれまであまり注目されなかったのかもしれません。
大西洋を横断したリンドバーグが来日して、宇佐美家で撮影した写真が展示されていたりしたので、江戸時代だけでなくその後もかなりの有力な家だったようです。

宇佐美家出身者が茂原町長を務めたことがあったことも今回展示されていました。宇佐美平吉郎が、第4代茂原町長を1893〜1895年に務めています。この方、その後北海道に開拓に行ったと説明がされていたのですが、町長を務めた後になぜ北海道なのかや、どんな開拓をしたのかという説明がなく、謎が残りました。

そういえば、歴代の茂原町長について全く知らなかったなと思い、ググってみましたが、歴代茂原町長の一覧は残念ながら出てこない。安川寛三郎という方が1892年4月から1893年10月まで茂原町長を務めたとウィキペディアにありました。宇佐美平吉郎の任期から考えると、安川寛三郎が第3代茂原町長なのかもしれません。
 安川寛三郎はその後衆議院議員に当選。政界を引退後は北海道で開拓事業したとあり、ここでもまた北海道開拓事業が出てきました。どうやら茂原市の有力者層にこの時期北海道開拓ブームがあったのかもしれません。



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伊能忠敬、帰路仙台から師匠高橋至時に書状を出す

2022年10月08日 | 伊能忠敬測量日記
〈はじめに〉
伊能忠敬は蝦夷地測量で国後島を目指していましたが、残念ながら国後島にはたどり着けず、ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)から折り返すことになりました。
師匠の高橋至時への書状は、①現在の状況の説明、②幕府の役人三橋藤右衛門からのレポートの添削依頼にあります。
①については、ニシベツで折返し、現在は仙台におり、10月21日には江戸に到着する予定であると書かれています。
②については、「蝦夷地にて三橋藤右衛門様から、天文の来歴、唐土紅毛からの伝来に着き、江戸に着くまでの間に書き認めるようにとのご依頼をいただきました」と書状で説明されているとおりで、この幕府の役人からのレポートの宿題をクリアするために高橋至時先生のお力を借りたいというものです。

【寛政12年10月8日(1800年)伊能忠敬から高橋至時への手紙】
一筆啓上。先生に置かれましてはますますご安泰のことと存じます。
測量の御用の件は従前にも愚簡により申し上げましたので、その後のことをご報告します。
ノコベリベツ、アンネベツを通り、ニシベツまで参りました。ニシベツでは、ネモロ御詰合の役人が出張中でしたので、ネモロには行かずに遠測ですませ、アツケシに帰りました。
8月13日にはアツケシを出立し、9月11日には箱館に帰着しました。箱館を14日に出立し、17日には松前に着きました。翌18日は順風で三厩に無事着き、20日に三厩を出立。道中できるだけ各場所で測量し、今日仙台城下に着きました。長旅でありましたが、ここまで一同無事ですので、ご安心ください。
 仙台は明9日に出立、9月20日には草加泊、21日には江戸に戻る予定でおりまして、先触もそのように出しました。先触とこの書状とは、千住宿から御役所まで届くよう手配いたしましたので、ご高覧の上お手数ですが、深川の隠宅(自宅)まで届くようご手配いただければ幸いです。
一 蝦夷地にて三橋藤右衛門様から、天文の来歴、唐土紅毛からの伝来に着き、江戸に着くまでの間に書き認めるようにとのご依頼をいただきました。三橋様は既に江戸にお戻りです。帰路測量の合間を縫って草稿を書きました。前後も混乱しておりますが、ご高覧の上、なにとぞご添削くださいますようお願いいたします。御面倒をおかけいたしますが、三橋様からのご指示ですので、よろしくお願いいたします。
 ところで、蝦夷地各所で御詰合の役人の方は、「蝦夷人に漁労の時候を指図したいのだが、新しい年の暦が延着してしまうようでは困る。できれば前の年の秋中には略暦でもよいので入手したいものだ。」と口々に仰っていました。このようなことは、三橋様から若年寄様に仰っていただくほかございません。三橋様宛の私の書面にはこのようなことは書いていないのですが、この点もお含みおきいただきまして、併せてご添削くださいますよお願い致します。

〈コメント〉
・伊能忠敬は村役人を長年務めていただけあって、上司である高橋至時への報告も無駄がありません。
 ニシベツから折り返す理由は、寛政12年8月7日付けの日記では詳細に記されていますが、ご紹介した高橋至時への書状では、「ニシベツでは、ネモロ御詰合の役人が出張中でしたので、ネモロには行かずに遠測ですませ、アツケシに帰りました。」と簡単に説明しています。

伊能忠敬、北海道ニシベツから引き返す:寛政12年8月7日日記フルバージョン - 弁護士TKのブログ

〈はじめに〉伊能忠敬は蝦夷地測量で国後島を目指していましたが、残念ながら国後島にはたどり着けず、ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)から折り...

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・今後の予定として、「仙台は明9日に出立、9月20日には草加泊、21日には江戸に戻る予定でおります」と書いており、そのとおりに江戸に到着しています。忠敬の頭の中では旅程のプランニングが出来上がっており、そのとおりに軽々と実行しています。



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国葬令の条文 現代語訳

2022年10月06日 | 歴史を振り返る
国葬令の条文 現代語訳
(はじめに)
 現代語訳
昔の条文は漢字片仮名でとっつきにくいので、国葬令の条文を現代語訳してみました。全五条と短い法令です。

国葬令(大正15年10月21日勅令第324号)
昭和22年12月31日限りで失効。

(私訳)
第一条 大喪の儀(天皇の葬儀)は国葬とする。
【原文】
第一條 大喪儀ハ國葬トス
(コメント)
一条は大喪の儀、即ち天皇の葬儀を国葬と定めています。現行の皇室典範25条では、「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う。」と規定しており、〈国葬〉との文言は用いていません。

(私訳)
第二条 皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃及び摂政である親王、内親王、王女、王の葬儀は国葬とする。但し、皇太子、皇太孫が七歳未満でお亡くなりになった場合はこの限りではない。
【原文】
第二條 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及攝政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ國葬トス但シ皇太子皇太孫七歳未満ノ殤ナルトキハ此ノ限ニ在ラス
(コメント)
二条は皇族のうち必ず国葬となる者についての規定。皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃が亡くなった場合、親王、内親王、王女、王は摂政であった場合は国葬となるとの規定です。
現行の皇室典範では、皇族の葬儀については規定していません。

(私訳)
第三条 国家に偉功ある者が死亡したときは、特旨により国葬としなければならない。
2 前項の特旨は勅書をもって行い、内閣総理大臣はこれを公告する。
【原文】
第三條 國家ニ偉功アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ國葬ヲ賜フコトアルヘシ
前項ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣總理大臣之ヲ公告ス
(コメント)
一条(天皇)、二条(皇族)以外の者について国葬とする場合の規定です。この場合は「国家に偉功あること」「天皇の特旨」が要件となります。手続きとして、特旨は勅書をもって行い、内閣総理大臣が公告する必要があります。

(私訳)
第四条 皇族でない者の国葬においては、葬儀を行う当日は廃朝し、国民は喪に服する。
【原文】
第四條 皇族ニ非サル者國葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廢朝シ國民喪ヲ服ス
(コメント)
廃朝とは、天皇が政務に臨まないこと。喪に服す(原文は喪ヲ服ス)が今回の国葬では問題になりましたが、国葬令では具体的な内容は規定されていません。

(私訳)
第五条 皇族でない者の国葬においては、葬儀の方法は内閣総理大臣が勅裁を経てこれを定める。
【原文】
第五條 皇族ニ非サル者國葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣總理大臣勅裁ヲ経テ之ヲ定ム

(終わりに)
最後に私訳と原文をまとめて掲げておきます。

国葬令(大正15年10月21日勅令第324号)
(私訳)
第一条 大喪の儀(天皇の葬儀)は国葬とする。
第二条 皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃及び摂政である親王、内親王、王女、王の葬儀は国葬とする。但し、皇太子、皇太孫が七歳未満でお亡くなりになった場合はこの限りではない。
第三条 国家に偉功ある者が死亡したときは、特旨により国葬としなければならない。
2 前項の特旨は勅書をもって行い、内閣総理大臣はこれを公告する。
第四条 皇族でない者の国葬においては、葬儀を行う当日は廃朝し、国民は喪に服する。
第五条 皇族でない者の国葬においては、葬儀の方法は内閣総理大臣が勅裁を経てこれを定める。

【原文】
国葬令(大正15年10月21日勅令第324号)
第一條 大喪儀ハ國葬トス
第二條 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃及攝政タル親王内親王王女王ノ喪儀ハ國葬トス但シ皇太子皇太孫七歳未満ノ殤ナルトキハ此ノ限ニ在ラス
第三條 國家ニ偉功アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ國葬ヲ賜フコトアルヘシ
前項ノ特旨ハ勅書ヲ以テシ内閣總理大臣之ヲ公告ス
第四條 皇族ニ非サル者國葬ノ場合ニ於テハ喪儀ヲ行フ当日廢朝シ國民喪ヲ服ス
第五條 皇族ニ非サル者國葬ノ場合ニ於テハ喪儀ノ式ハ内閣總理大臣勅裁ヲ経テ之ヲ定ム

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寛政12年9月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年10月03日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年9月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年9月21日(1800年)
朝から曇天・小雨であり、夜も同じ。朝七つ半に平館を出立。平館の村々の役人の案内を受ける。蟹田、蓬田(同所では止宿の家がある)、油川を過ぎ、青森に七つ半過ぎに着。
出立した道中で疲労を覚え、少し病気のようであるので、青森に逗留することとし、追触を出す。この夜、津軽家の江戸屋敷松野茂右衛門殿から7月18日付書状を受け取った。
〈追触の内容〉
一 昨21日に青森に着いたところ、病気であるので、本日22日は青森に逗留し、23日に出立するので、そのように心得て、止宿及び人馬の手配を執り行ってください。 以上
 申9月22日     伊能勘解由
           青森から森岡まで
村々名主・問屋・年寄 中
(コメント)
本日の旅程は平館(平舘;外ヶ浜町)〜青森(青森市)。平館の村役人は親切でチーム伊能を案内してくれました。本日も約40キロ歩いており、さすがの忠敬も疲れを覚えたようです。青森にて逗留予定。

外ヶ浜町役場 平舘支所 to 青森駅

外ヶ浜町役場 平舘支所 to 青森駅


   
寛政12年9月22日(1800年)
前夜から朝飯後まで雨、四つ頃から止んで曇天、夜まで度々小雨。(青森に)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は予定どおり青森で逗留。終日雨の降る日でしたので、休息には丁度良かったかもしれません。休日はこの一日だけで、明日からはまた江戸を目指して歩き続けます。
                       
寛政12年9月23日(1800年)
朝から晴天、暮より曇り、その後晴れ。朝七つ半青森を出立。野内を通り、小湊に九つ半に着。止宿。この夜晴れたので測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は青森(青森市)〜小湊(平内町)。地図上では約26 km。往路では野辺地〜青森まで一気に行っていますが、忠敬の疲れを考慮してか、野辺地より手前の小湊で一泊。

青森駅 to 小湊駅

青森駅 to 小湊駅



寛政12年9月24日(1800年)
朝から晴れ。朝六つに出立。太陽の南中を観測する。九つ前に野辺地に着き、止宿(小湊から五里廿九丁十三間)。夜曇ったが、雲間に測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は小湊(平内町)〜野辺地(野辺地町)。日記では五里廿九丁強(23km強)。野辺地は現在は青森県ですが、江戸時代は盛岡藩。北前船で賑わっていた湊町です。

小湊駅 to 野辺地町役場

小湊駅 to 野辺地町役場



寛政12年9月25日(1800年)
朝から晴天。朝六つに(野辺地を)出立。九つ半ころに七ノ戸に着き、止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は野辺地(野辺地町)〜七ノ戸(七戸町)。往路では五戸〜野辺地まで約46キロを一日で行っていましたから、ここでも短く刻んでいます(地図上では15 km)。日記もごくごく短いです。

野辺地町役場 to 七戸町役場

野辺地町役場 to 七戸町役場



寛政12年9月26日(1800年)
朝五つ頃まで晴れ、その後曇る。朝七つ半(七ノ戸を)出立。藤嶋を経て、五ノ戸に九つ後に着き、止宿。夜晴れて測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント) 
本日の旅程は七ノ戸(七戸町)〜五ノ戸宿(五戸町)。地図上では31 km。忠敬も元気が出てきたのか、距離が伸びています。夜に測量(天体観測)も行っています。

七戸町役場 to 五戸町役場

七戸町役場 to 五戸町役場




寛政12年9月27日(1800年)
朝五つ後より風雨、朝六つ後に(五ノ戸を)出立。浅水を経て、三ノ戸に九つに着き、止宿。宿は山邊源兵衛方である。夜も風雨であったが、雲の中測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は五ノ戸(五戸町)〜三ノ戸(三戸町)。地図上では22 km。往路では三ノ戸はスルーしたのですが、帰路では三戸宿に泊まるからと宿の主人山辺源兵衛と約束をしており(5月6日条)、その約束を果たして三ノ戸に止宿しています。「宿は山邊源兵衛方である」とさりげなく書いていますが、約束は忘れていないとの忠敬なりの表現でしょう。

五戸町役場 to 三戸町役場

五戸町役場 to 三戸町役場



山辺源兵衛との約束(5月6日条)。



寛政12年9月28日(1800年)
朝六つ半(三ノ戸を)出立。五つ過ぎから雪降る。金田の市まで来ると雪はますます降り五六分まで積もった。ここで中食。雪はその後やんだが、(平山)宗平と(伊能)秀蔵は道を間違えたようで追いついてこない。
かなり待ったが来ないので、金田市の村役人に依頼して、門倉(隼太)氏と共に先に行く。福岡を経て、一ノ戸に七つ後に着く。ほどなくして、(平山)宗平と(伊能)秀蔵も一ノ戸に着いた。夜も雪が少々降ったが、雲の中を測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は三ノ戸(三戸町)〜一ノ戸(一戸町)。地図上では22 km。ついに雪が降ってきてしまいました。五六分といいますから、2センチ弱くらいでしょうか。雪のせいもあるのか、平山宗平と伊能秀蔵は道を間違えてしまい、途中別々になってしまいました。

三戸町役場 to 一戸町役場

三戸町役場 to 一戸町役場



寛政12年9月29日(1800年)
朝六つ後に(一ノ戸を)出立。五つ頃雪が降り、七つ頃また雪が降った。一ノ戸から三里程で小憩。ここで中食としたが、この時も雪。七つ半後沼宮内へ着いた(一ノ戸から八里強)。止宿。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は一ノ戸(一戸町)〜沼宮内(岩手町)。八里強(32 km)。本日も雪が降り続く中での旅。夜も雪の中、天体観測(昨日もそうでした)。雪の中を30キロ以上歩き、夜に天体観測までしており、忠敬の体調は完全に戻ったようです。

一戸町役場 to 沼宮内代官所跡

一戸町役場 to 沼宮内代官所跡



寛政12年9月晦日(30日)(1800年)
朝から暮まで晴れ。朝七つ半出立。四里余りで渋民。ここで中食。そこから五里弱で盛岡城下(南部大膳太夫・十万石)に七つ頃着。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は沼宮内(岩手町)〜盛岡城下(盛岡市)。地図上では35キロ。当時盛岡は南部藩十万石の城下町です。南部氏は大膳太夫を名乗っていました。本日盛岡に到着で、江戸にはあと20日ほどで到着する予定です。

沼宮内代官所跡 to 盛岡城跡

沼宮内代官所跡 to 盛岡城跡



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