南斗屋のブログ

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文政10年10月上旬色川三中「家事志」

2022年10月13日 | 色川三中
文政10年10月上旬色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年10月朔(1827年)晴
私の本名は「英明」というが、鹿嶋の神にお伺いしたら、古人に同名のやんごとのない方がおられるとのこと。「英名」の名は恐れ多く、去年から「央明」とし、英の字の冠を抜いて書いている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「色川三中」の「三中」は号。本名(諱)は「英明」。この名前について鹿島神宮にお伺いをたてたら、同名の貴人がいたのだそうです。そこで、英の字の草カンムリを抜いて「央明」としたという記事。現代は名前を簡単に変えることはしませんが、江戸時代はこのような感じで、好きなように名乗っていたのでしょう。

文政10年10月2日(1827年)晴
(土浦藩の)殿様が神龍寺にお入りになった。神龍寺は以前神立村(土浦市神立)にあったものを、12名の者が遷座させたのである。寺を移したところ、土地のことについて公事(訴訟)がおき、12名は変わるががわる江戸に出て対応した。訴訟にかかる費用は多額にのぼったので、その後困窮したとのことである。このことは寺の記録に残っていると、それを見た人が話をしてくれた。暇があれば自身で調べたいのだが、時がない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
神龍寺は土浦市にある寺。三中の墓はこの寺にあります。神龍寺の遷座とそれに端を発した公事(訴訟)の記事。訴訟にかかる費用が多額になるのは、江戸での滞在費がかかるうえに、その間は仕事ができないことに原因があります。長期間にわたったため、訴訟関係費用が膨らんだのでしょう。

文政10年10月3日(1827年)
【編集より】本日三中殿は日記をお書きになりませんでした。持病がでてしまったようです(明日には再開予定)。
#色川三中 #家事志

文政10年10月4日(1827年)曇
明日はわしの宮の角力、明後日は田中の角力である。田中の角力は例年9月15日に行われていたが、本年から連日行うような日程となった。谷田部や川原代にいる親戚にその旨いってきかせたところ、必ず見に行くというので、本日迎える用意をした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「わしの宮」は、現在の土浦市東崎町にある鷲(おおとり)神社のことか。「田中」は土浦の地名。土浦の町の近隣で相撲が盛んに行われていたようです。もともとは別日程だったものを連日にしたのは、集客のためなのかもしれません。谷田部や川原代という歩いて半日はかかる場所からも、「必ず見に行く」との連絡が入っています。

文政10年10月5日(1827年)曇
わしの宮の角力が行われた。親戚が来るというので、料理を用意したが誰も来ず。夕方になってようやく、木村源三郎とその新宅の次男が来た。木村はカモ一つがい、新宅次男もカモ一羽を土産として持参した。丁寧なことである。夜は、一晩酒を飲んで過ごす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
わしの宮の角力が行われましたが、予定していた人が誰も来ないという事態に(ドタキャン?)。せっかく作った料理が台無しです。夕方ようやく来た親戚の土産はカモ。土産物は買って持っていくものではなく、その辺で取れたものでという感覚です。

文政10年10月6日(1827年)曇折々小雨
田中の八幡社で角力を見物する。先日例の持病がでてしまった。病み上がりだが、客人と同道した。事前に店の者を遣わして、畳や布団を敷いて場所を取らせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は今月3日に持病がでてしまい、日記も書けなかったほどでしたが、本日は客人と同道し、相撲見物に行けるまでに回復しました。見物客が多い行事に場所取りをするのは、今も昔も変わりませんが、その方法が畳や布団を敷くというのが現代からみると新鮮です。

文政10年10月7日(1827年)快晴
昨夜四つ(午後10時)ころ、店の佐助が塀に小便をし、これを土浦藩の生駒様、小崎様にとがめられた。佐助が口論をしたので、隣主人がとりなしてくれた。今朝、佐原の酒二升を生駒様、小崎様に遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の佐助が立ち小便をし、土浦藩の藩士に咎められて口論という事態が起きました。その場はとりなしてくれる者がいて事なきをえたので、三中は翌日酒を役人に届けています。「佐原の酒」(佐原は現在の千葉県香取市)とわざわざ書いており、佐原の酒は上物だったようです。

文政10年10月8日(1827年)庚申 晴
五日前に吉兵衛を日帰りの仕事に出したのに、いまだに帰ってこない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日の佐助に続き、従業員のトラブルです。五日前に吉兵衛を日帰り出張に行かせたのに、まだ帰ってこないというのです。吉兵衛は一度暇を出されて、その後詫びを入れて雇用継続となった身です。今回無断欠勤ですから、ただでは済まないでしょう。



文政10年10月9日(1827年)
・吉兵衛が出勤していない件、本日早朝、吉兵衛の親を呼び出し、厳しく言渡した。
・本日、ご城内で軍事調練があり、藩主も上覧されたとのこと。軍師は大久保要様。両軍合わせて400人。鉄砲を撃ち合わせ、次いで弓、槍。互いに秘術を尽くした面白いものであったことであろう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代は平和であったとはいえ、武士はやはり武人なので、軍事調練があります。閏6月29日条にも軍事調練の記載があり、このときは見物可でしたから、今回も同様だったのでしょう。三中自身は見に行っていませんが、伝え聞いたことを書き記したものと思われます。


文政10年10月10日(1827年)
・田中清吉が夜になってから来たので、吉兵衛のことを申し渡した。
・香取時之助が七兵衛という者を連れてきた。15歳という。直ちに「茂吉」と改名して呼ぶこととした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・従業員吉兵衛が日帰り出張後バックレてしまいましたので、その後始末が続きます。昨日は親を呼び出しましたが、本日は仲介人である田中清吉に対して話しをしました。
・その一方で新たな従業員がやってきています。


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