(はじめに)
先日、大正時代の吹上佐太郎死刑囚についてブログ記事を書きましたが(関東連続少女殺人事件の吹上佐太郎の辞世句)、吹上死刑囚は市ヶ谷刑務所で死刑を執行されたのでした。市ヶ谷刑務所とはどこにいつまであったのかと疑問に思いましたので、調べてみました。
(東京監獄⇒市ヶ谷刑務所)
市ヶ谷刑務所のあった場所は、現在の新宿区余丁町、富久町あたりです。
「監獄」といわれていたものが、「刑務所」という名称に変更になったのは大正期からであり、市ヶ谷刑務所が「刑務所」と呼ばれるようになったのは、1922(大正11)年です(本年でちょうど百年)。「市ヶ谷刑務所」と呼ばれる前は、「東京監獄」と呼ばれていました。市ヶ谷刑務所の前身の「東京監獄」は1903(明治36)年に鍛冶橋から富久町に移転してきたのです。
市ヶ谷刑務所には既決囚も収容されていたようですが、未決囚の拘置がメインであり、今でいう「拘置所」の機能を果たしていました。市ヶ谷刑務所は1937(昭和12)年には、巣鴨(現豊島区東池袋)に移転し、移転後は「東京拘置所」と改称されています。なお、この東京拘置所は1971年に葛飾区小菅に移転し、現在に至っています。
(市ヶ谷刑務所では死刑が行われていた)
東京監獄時代にも死刑執行が行わており、幸徳秋水らの大逆事件の死刑執行は同所で行われています(1911年)。
また、 はじめにで言及した吹上佐太郎の死刑執行も市ヶ谷刑務所で行われれています(1926年)。
刑務所の跡地である富久町児童遊園内に刑死者慰霊塔があるのはこのような経緯によります。
この慰霊塔については、森長英三郎弁護士が次のように書き記しています。
「ここ(注東京監獄・市ヶ谷刑務所)に東京控訴院管内の死刑場があり、明治37年から昭和12年までの間に約300名が執行せられている。戦後その刑場跡が児童遊園となっていたので、私が日本弁護士連合会(日弁連)へ持ち込み日弁連主催で会員から浄財を集めて、そこに元日弁連会長円山田作揮毫の処刑者慰霊塔を建てた。その除幕式は昭和39年7月15日に行われた」
(三島由紀夫と市ヶ谷刑務所)
三島由紀夫は13歳のときに「酸模(すかんぽう)」という初めての小説を書いており、この小説の冒頭で市ヶ谷刑務所を「灰色の家」と呼び、次のように描写しています。
「塀は灰色で、それから大きい門柱も、所々に出っ張って、遠くから見える棟々の屋根も、何も彼も灰色をしていた。恐らく門の中の広い広い庭も灰色の空気に満たされていたことであろう。そうで無いものと云えば、黒く冷たい鉄製の大きな門だけだった。」
三島由紀夫は、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷四丁目22番)で生まれており、市ヶ谷刑務所はそれほど遠くはありません。