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代言人・弁護士として活躍した板倉中

2023年12月23日 | 歴史を振り返る
代言人・弁護士として活躍した板倉中

(はじめに)
以前、加波山事件についてこのブロクで書いたことがあるのですが(「加波山事件と千葉重罪裁判所」)、主犯富松正安の弁護人となったのが、板倉中(なかば)です。
板倉中は千葉県の生まれということもあり、興味がありましたので、調べてみました。

(板倉中の略歴)
『千葉県弁護士会史』には板倉中について、次のように述べられています。
・板倉中は1856年(安政3年)、白子町関字中富に生まれた。
(コメント)
当時は白子町はありませんので、現在の白子町関にあたる地でという趣旨でしょう。板倉が生まれたのは、関村(現在の千葉県長生郡白子町関)です。

・宮谷県給仕から明治大学の前身となる明法学舎においてフランス法を学んだ。
(コメント)
宮谷県(みやざくけん)は、1869年(明治2年)に安房国・上総国・下総国・常陸国内の旧幕府領の管轄のために明治政府によって設置された県です。
知県事役所は、現大網白里市大網にある本国寺にありました。本堂(旧宮谷檀林大講堂)を除く一切の諸堂が庁舎として使用された。といいます。本国寺には、「宮谷県庁跡」の碑があります。

・板倉中は、免許代言人制度の誕生とともに代言人の資格を取得した。
(コメント)
板倉中は明治13(1880)年に代言人となっています。代言人というのは、今日の弁護士に相当するものです。代言人という呼称は、明治5年8月公布された司法職務定制が初めてですが、このときは試験制度はありませんでした。明治9年2月に代言人規則が公布され、代言人となるには地方官の審査が必要となりました。明治13年には、この代言人規則が改正され、試験官は検事が行うこととなったのです。

・板倉中は、加波山事件の首謀者富松正安(死刑)の弁護を初めとして、大阪事件、大津事件、日比谷焼打事件、平民新聞事件、大逆事件、大日本製糖事件などの著名事件に関与している。
(コメント)
加波山事件で板倉中が弁護人を務めたことは、過去記事「加波山事件と千葉重罪裁判所」でも書きました。
大阪事件で弁護人として活躍したことは、平野義太郎『大井憲太郎』(吉川弘文館)で述べられています。同書では、板倉中を次のように紹介しています。
「大阪事件で大井(憲太郎)を弁護した板倉中弁護士は、すすんで大井の著した『時事要論』の発行名義人となった。彼は、明治後期に千葉県選出の代議士としておなじか千葉県長生郡出身の鵜沢総明とともに国会で活躍し、また大井らとともに、晩年まで普選運動に力をつくした」

(終わりに)
板倉は代言人制度揺籃期から代言人となり、また、著名事件の弁護人をも務めていますので、弁護士史を考える上でも興味深い存在です。明治から大正にかけて活躍した千葉県内の弁護士はいずれも史料に乏しく、唯一の例外は板倉中であるとのことです(『千葉県弁護士会史』)。
板倉中の弁護士としての活動を掘り下げてみたいものです。
なお、令和5年度 市史編さん事業展示として、茂原市美術館・郷土資料館は、「茂原の自由民権運動-斉藤自治夫(さいとうじちふ)と板倉中(いたくらなかば)ー」 令和5年9月16日~12月10日をテーマ展として開催しています。

その他の参考文献
「郷土の政治家 板倉中の生涯」秋谷忍(房総の郷土史第36号2008年)
「春峰 板倉中小伝」井桁三郎
「板倉中の裁判資料と朝鮮問題」(加藤時男;千葉史学56号)
また、板倉中の関係資料は、茂原市立図書館発行の「茂原市古文書目録」のその1(1996年)、その5(2009年)にもあります。

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