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年末を控え帰村の準備 嘉永6年12月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年12月25日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年12月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年12月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記
年末が近づき、本日市右衛門殿が帰村。武左衛門殿も帰村が決まった。「正月が来たら、江戸滞在の資金稼ぎのために仕事をしないとな」と誰彼となく話しがでて、その相談をした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
武左衛門は諸徳寺村(現旭市)の村役人(10月5日条)。差添(付添)として江戸に来たと思われますが、年末近くなり、帰村が決まっています。年明けには江戸滞在のためのバイトをする気運が高まっており、皆でそのことを話し合っています。



嘉永6年12月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿が仕事探しのため、芳音寺橋(法音寺橋?)の真木屋に行った。国元に帰る者は、草鞋を作って一足を二匁三で売ったらいいのではないかと話し合っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
村の子どもたちが一生懸命働いて仕送りをしてくれたので、江戸滞在の大人たちもやる気になっています。平右衛門は早速行動を開始。草鞋を作って売ったらいいかもというアイデアも飛び出しています。


嘉永6年12月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記
馬喰町の貸本屋に仕事の話しをしにいく。主人は昼留守だったので、夕方に出直し。小生「難渋しておりまして、仕事を探しております」。主人「それは難儀なことで。しかし、江戸も誠に不景気。私共の商売もうまくいっておりません。春になりましたら、風向きも変わるかもしれませんので、またお尋ねください」
小生が難渋していることを理解していただいた。親切なことだ。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
一昨日、皆で江戸で仕事をしようという打合せをし、昨日は平右衛門が行動したのを受けて、五郎兵衛も馬喰町の貸本屋に仕事がないか聞きにいっています。貸本屋の主人は親切でした。五郎兵衛、結構この貸本屋に通いつめたのかもしれません。

嘉永6年12月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記
・源兵衛殿、今日も清水様のお役所に出掛ける(一昨日に引き続き)。
・伊兵衛父は、井上医師に世話になった礼をしに行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
年末が近づき、帰村となることもまず間違いないという状況で(もっとも、奉行所の許可はまだ出てませんが)、挨拶に出かける人が多くなっています。皆さん、千葉の地方の農民なのですが、江戸に出てきても礼儀正しく行動しています。


嘉永6年12月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記
・明日、奉行所に帰村願いを出すため、三河町万屋に行って依頼(亭主留守のため、内室に頼む)。蓮屋にも行き、差添のことを頼む。
・音羽五町目から出火。廿町余りの大火とのこと。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
年も押し詰まってきましたので、いよいよ明日には帰村願いを奉行所に提出します。何度もやっていいますので、五郎兵衛も手慣れたもの。公事宿に依頼をしに行っています。
火事の記事。江戸は火事が多いですね。


嘉永6年12月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝、奉行所に帰村願いを届けに行く。小生のほか5名。差添3名。邑楽屋の米八殿の案内。邑楽屋・蓮屋に書面作成を依頼。奉行所の担当者がおらず、奉行所からは「おって呼び出すから宿に控えておれ」とのご指示。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日は奉行所に帰村願いを提出。邑楽屋・蓮屋はいずれも公事宿。公事宿が書面を作成し、案内します。やはり、細かいところはプロにやってもらった方が良いのは、江戸でも現代でもかわりません。奉行所の尊大な態度も、今と変わらぬような気がします。

嘉永6年12月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
幸左衛門殿と二人で、高輪の高松様に幽学先生が書いたものを届け、すぐに借家に戻る。伊兵衛父、源兵衛殿と小生三人で髪結いし、風呂に入る。その後、書物を写す。宝田村の甚左衛門が来たが、夕方には帰った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
帰村願いも出したし、年末でもあるからか、何か心理的にノンビリした感じ。髪結いしたり、風呂に入ったりした後は、五郎兵衛はいつもの写し物。宝田村の甚左衛門だけが何か慌ただしい感じです。

嘉永6年12月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
幽学先生、幸左衛門殿、良祐殿が髪結いし、昼から湯に入る。小生はその間、写し物。幽学先生から、「来年江戸に来る時には鮒を持ってきてもらいたい」とのお話しあり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日は五郎兵衛たちが髪結いと風呂に入っていましたが、今日は大原幽学先生が髪結い等。五郎兵衛は相変わらず写し物です。幽学先生が鮒を持ってきてくれというのは、どういう意味なんでしょうか。

嘉永6年12月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記
晩に邑楽屋の米八殿が来て、「明日いつもの時刻に出頭せよと奉行所からお呼出しがありました」とのこと。蓮屋からも同じ内容の手紙が届いた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所から明日出頭せよとの連絡がきました。邑楽屋・蓮屋の公事宿が奉行所からの連絡を取り次ぎます。これも大事な公事宿の仕事。邑楽屋は従業員米八に行かせていますし、蓮屋は手紙。時と場合によって連絡手段を分けているようです。

嘉永6年12月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記
小生他6名と差添2名で、朝奉行所へ。着届けし、腰掛で控える。昼に呼び出しあり、訴え所に行くと、「帰村を認める。正月晦日までに戻ること。幽学は村預けとする」との御沙汰。請書帳に名を書き、印形押す。御役所に行き、帰村の手続き。大竹様がおられたので、暇乞いして帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所での手続き。着届け⇒腰掛で待機⇒呼び出しをうけて担当のところへ、という一連の流れは五郎兵衛にとってはもはや手慣れたもの。
続いて、江戸から地元に戻る手続きを「御役所」で行います。知り合いの武士がいれば挨拶もするので、奉行所(裁判所)よりは堅苦しくないようです。






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