脱走者への処置 仮刑律的例 43-2
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(要旨)脱走者への処置は藩に任せる
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【美作勝山藩からの伺】
明治2年3月2日、美作勝山藩からの伺い。
・美作勝山藩の藩主三浦玄蕃頭(三浦顕次)の東京の下屋敷にいた家来(大須賀平左衛門ら)が昨年五月に脱走しました。
その後この者たちを発見したので、連れ戻して謹慎させました。
東征大総督府の御参謀にお伺いしたところ、「在所に連れ戻しさらに厳重な禁錮を申し付けよ」とのご指示がありましたので、そのとおりにしております。
・その後、この者どもはみな深く反省し、妻子や眷属に至るまで日夜悲泣哀歎しております。
・この度、天皇陛下のご即位の大礼に伴い、全ての罪人に大赦が発令されました。そこで、大須賀平左衛門らにも格別のご慈悲をもって、ご憐憫いただきたく思い願い出ました。このようなお願いを申し上げるのは恐れ多いことですが、どうかご慈悲を賜りますようお願い申し上げます。
【返答】
同年三月五日、返答。
この件は御藩の判断に任せる。適切な処置を行い、その処置の結果を届け出ればよい。
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(コメント)
・美作の勝山藩は、美作国真島郡勝山(現岡山県真庭市勝山)にあった藩です。藩庁は勝山城に置かれていました。
文中の「昨年5月」というのは、慶応4年5月のことです。この年の9月に改元していますので、慶応4年=明治元年です。この頃は戊辰戦争のさなかであり、江戸城の無血開城は慶応4年4月11日のことですので、一部家臣が脱走したのは、その翌月のことです。
・脱走の理由は伺いからは分かりませんが、時節から考えると、その者たちが幕府側のシンパだったとか、それとも戦さに駆り出されること自体が嫌で逃げたかでしょうか。
・家来が脱走したということは、戦時中の戦闘員の戦闘放棄と位置づけられます。東征大総督府(官軍)の当時の指示は、「在所に連れ戻しさらに厳重な禁錮を申し付けよ」でしたから、美作に送り、当地で不自由な謹慎生活を送っていたものと思われます。
・その後、官軍は会津城も攻め落とし、東北まで平定。明治天皇の即位の礼、それに伴う大赦が行われるなど、状況が様変わりしました。
・一方、脱走した家臣も「みな深く反省し、妻子や眷属に至るまで日夜悲泣哀歎」しており、美作勝山藩としても潮時と見て、今回の伺いとなったのでしょう。
・明治政府の判断は「この件は御藩の判断に任せる。適切な処置を行い、その処置の結果を届け出ればよい」というもので、藩に任せるというものです。戊辰戦争も函館戦争を残すだけの時期ですから、戦闘はほぼ収束に向かっており、戦闘員の脱走を厳しく追及する時期は既に終わっているとの雰囲気が伝わってきます。