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転売ヤー幽学・嘉永7年3月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年03月25日 | 大原幽学の刑事裁判
転売ヤー幽学・嘉永7年3月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年3月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は、鎖のことを聞きに、芝などを探し歩かれた。
小生は馬喰町桝屋に忠兵衛殿に会いに行ったが、あいにく留主。帰りには野菜を買って、節五郎と二人で洗い、幸左衛門殿にも手伝ってもらって、野菜を漬けた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は刀剣を売る転売ヤーの仕事をしています(嘉永6年11月12日条)。鎖も需要があったようで、一昨日は本所を回っていました(3月9日条)。今日は芝の辺りを回っています。
五郎兵衛は仕事探し。しかし、見つからず野菜を買って、漬物をしています。

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嘉永7年3月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
住込みで仕事をしている良祐殿、惣右衛門殿、伊兵衛父の三人が揃って借家に来たので、ごま餅などを振舞った。
小生は、芝尾張町の人形師西村仙太郎店へ行き、仕事がないかとお聞きしたが、「最近は売れ行きがさっぱりで、仕事がない」とのこと。銀座で二軒同様に聞いたが、やはり仕事はないとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
これまで借家で共同生活をしていましたが、住込みの仕事となった者は、折に触れて借家に顔を出すことになります。今日は三人一遍に顔を揃えたので、ごま餅を振る舞っています。五郎兵衛も仕事を探していますが、江戸は不況のようで(天保の改革の影響でしょうか)、仕事先が見つかりません。

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嘉永7年3月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿が仕事をしている場所を見に行った。小石川の高松様方に行く。その後は買い物をして、日暮れには借家に戻る。戻ってから、茶碗、土瓶等の掃除。節五郎殿と傳蔵殿が障子はりをしてくれた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は借家で炊事等の係となっています。茶碗、土瓶等の掃除も五郎兵衛の仕事のようです。障子はりは節五郎殿と傳蔵殿がやってくれました。

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嘉永7年3月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生が袴地を買いに行かれ、昼前に一度戻られたが、小石川の高松様方に頼み事の為に出て行かれた。お戻りは夜であった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が日常雑事をこなしているのとは対照的に、大原幽学は袴地を買いに行ったりして、日常の雑事には携わっておりません。
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嘉永7年3月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は買物に行かれ、腰物一本買って来られた。お戻りになってからご教諭。「江戸で財産を築くには、正札附で目立つようにして、安く売るようにすれば繁昌するのは難しくない。 眼の前の欲にとらわれないことだ」等とお話になられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学が腰者(刀)を購入しているのは、転売ヤーで稼ごうとしているからです。江戸全体は不況のようですが、ペリー来航以来、軍事的対応を迫られており、武士階級の軍事関係の支出は増えている様子。そこに目をつけた幽学先生、江戸で稼ごうというのは難しくない、と言い切っています。


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嘉永7年3月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は日陰町の辺りに行き、腰物を買って買ってお戻りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学先生は今日も腰者(刀)の仕入れです。

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嘉永7年3月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
一昨日、高松力蔵様が養子縁組のことで幽学先生にご相談に来られたのだが、本日昼もまたお出でになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「力蔵様」は、高松力蔵のこと。大原幽学の身元を引き受ける高松彦七郎(御家人)の次男です。内容は書いてありませんが、養子縁組のことで問題が発生しているようです。御家人の次男坊として身の振り方が難しかったのかもしれません。
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嘉永7年3月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が昼前に来た。小生は霊岸島でろうそくを買った。帰り道のよし町で油揚を買い、
良祐殿に邑樂屋と外川屋(いずれも公事宿)に持っていってもらった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は今日も日用品の買い物。油揚げは公事宿への贈答品のようです。住込みで仕事をしている良祐殿が借家に顔を出してくれたので、公事宿に持っていってもらっています。
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嘉永7年3月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
小石川の高松様から使いが来て、幽学先はお出掛けになられた。御帰りは夕方であった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学先生や道友たちは頻繁に高松家に顔を出していますが、高松家から使いが来るのは珍しいことです。緊急の用があったのでしょう。
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嘉永7年3月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は、本日もお出掛けになられた。腰物と柳行李を買って帰られた。柳行李は惣右衛門の褒美で、小生が佐竹様の辻番(惣右衛門の職場)に持参して惣右衛門殿に渡した。帰りに、伊兵衛父の職場へ顔を出し、網の話しをした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
惣右衛門は、朝早くからの掃除バイトをし、その後佐竹家の辻番の仕事を住込みでしています。毎朝早くから仕事に行っていたのを幽学先生もご覧になり感じいることがあったのでしょう。柳行李を惣右衛門に褒美としてプレゼントしています。

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