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五郎兵衛 ようやく仕事にありつく 嘉永7年4月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年04月25日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永7年4月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年4月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は早朝から高輪に出かけられ、腰物を一本買ってこられた。
・昼過ぎに幸左衛門殿が収支の帳面の確認に来たが、小生が帳面を仕上げておらず、幸左衛門殿は泊まり。14日にも来られることになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
経費削減策のため、月の末日で締めて収支の帳面を作成しています。他の者はバイトに行ってしまっているので、帳面作成の責任者は五郎兵衛の役割。しかし、五郎兵衛は会計帳面の作成はかなり苦手です。11日になってもまだ帳面が作成できておらず、幸左衛門が借家に来ても空振りになってしまいました。
(菅谷)幸左衛門

大原幽学の門人 菅谷幸左衛門 - 南斗屋のブログ

大原幽学の門人菅谷幸左衛門(はじめに)大原幽学の刑事裁判を記した『五郎兵衛日記』には大原幽学の門人の名が多く記されています。しかし、同日記を読んでい...

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嘉永7年4月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が石川様の御門番の仕事をしたいといいだし、幽学先生に相談。幽学先生「甚だ筋が悪い。夜番の仕事についたのは、素読もできる所だったからではなかったか。それをまた門番に変えるとは不義理・私欲である」とお叱りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
(遠藤)良祐はこれまで、久保田藩(秋田藩)佐竹家の辻番⇒旗本石川家の辻番と転職してきましたが、今度は門番に着きたいと言い出しました。若い良祐には辻番の仕事はつまらないのでしょう。大原幽学に相談したところ、あっさりと断られてしまいました。

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嘉永7年4月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
神谷様が来られて、高松力蔵様の事について色々と話しをされた。幽学先生「神谷様は才のある考え方をされるから、徳も失われるのです。眼前の事だけ考え、あまり先のことは考えない方がよい。十年先の事とか、子供の代にはどうとか、自分が死んだ後はどうと一々考えないで、ゆるりとした方が道に叶います。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「神谷様」は水戸藩の隠密のようです(内山朝治「武士にて候」)。高松力蔵関係で大原幽学のところに来たのですが、色々と悩みがあるようで、一度幽学先生と話したところ心酔(4月4日条)。本日の幽学先生の話しからすると、だいぶ繊細な神経の持ち主のようです。

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嘉永7年4月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・幽学先生は買い物に出かけ、夕方にお帰りになられた。
・幸左衛門殿が早朝から来て、収支の帳面の確認。真夜中までかかっても終わらず。幽学先生から小生の帳面の付け方、金銭の取り扱い方が未熟。筋のたった帳面の付け方になっていない、と叱られた。帳面の確認は終わらず、幸左衛門殿は、また後日来ることになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
道友の生計費等の帳面作成は五郎兵衛の仕事ですが、こういう仕事が苦手な五郎兵衛は期限までに帳面を作成できていませんでした( 4月11日条)。そのため、幸左衛門は今日また確認に来たのですが、今度は間違いだらけ。幸左衛門が深夜までかかっても確認が終わらず、別の日にまた確認に来ることになりました。


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嘉永7年4月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・惣右衛門殿が借家に来られて髪を結いをし、昼に帰られた。
・長左衛門殿の内室が来た(良祐殿が連れてきた)。幽学先生は、身上の持方の方法や亭主との相談の仕方等を御教諭された。
・小生、井筒屋で茶を買い、通り油町の加賀屋に寄って眼鏡を取って帰った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「長左衛門」は江戸での仕事の紹介役として日記に登場しておりました。本日は奥様登場。やはり夫婦して江戸に住んでいるようです。幽学先生、夫婦関係の悩み事相談をしておりますが、結婚歴もなくして、夫婦関係相談をするとは、そういう才能をお持ちだったのでしょう。


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嘉永7年4月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・早朝、節五郎殿が借家に来る。小生と二人で手紙の下書きを書く。夕方節五郎殿は帰った。
・幽学先生は腰物を買ってお帰りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
節五郎は、旗本石川家に住込みで足軽奉公の仕事をしています。早朝に借家に来ていますから、夜の仕事なのでしょう。五郎兵衛とは親しい間柄で、日記にもちょいちょい顔を出します。今日は五郎兵衛と共に手紙の下書きを書いています。


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嘉永7年4月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が先生頼りで金を相談無しに渡したとのこと。幽学先生「以後このようなことのないように。手前もこの頃気の附け所がどうも気に入らぬ、食事を世話してもらっているが、世話される程嫌になる、どうもそれでは困る、この上は自分からは何も差図をしない、しかし分からないことは聞けば話す。難しいことはこれきり言わぬ。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛では時々大原幽学先生の発言内容が記録されているのですが、今ひとつ何が言いたいのか分からないときがあります。本日もその一つ。良祐が「先生頼りで金を相談無しに渡した」というのもわからないし、幽学先生が逆ギレ気味に、「自分からは何も差図をしない」という理由もよく分かりません。


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嘉永7年4月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・朝早く借家に来た節五郎殿と小生とで、国許への手紙を認め、蓮屋(公事宿)に手紙をお願いした。
・昼前に幽学先生は買物に出かけられ、小道具や脇差し1本を買って昼過ぎに戻られた。
・本屋から筆工の仕事の話しあるとのことで、小生、晩に本屋へ参り話しをしてきた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は刀等の転売ヤーで稼いでいるはずなのですが、五郎兵衛日記では買物に行く⇒刀を買ってきたという記載ばかりで、売ったという記載が出てきません。仕入れの資金をどこから得ているのかもよくわからず、謎だらけです。


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嘉永7年4月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・良祐殿が来られる。写し物をして日暮れには帰っていった。
・幽学先生は買物に出かけ、夕方にお帰りになられた。
・晩になって小生は、元浜町の本屋から真書太閤記一巻を借りてきた(写し作成の仕事用)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
仕事のなかった五郎兵衛ですが、昨日、本屋から声がかかり、今日、真書太閤記一巻を借りてきて、写し本の作成の仕事に取り掛かるようです。

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嘉永7年4月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝食後、邑楽屋(公事宿)から秤を借り、鰹節や味噌の目方を測る。早めに昼食を取ってから、幽学先生は幸左衛門殿と一緒に買物に出かけた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が公事宿から秤を借りてきて、鰹節や味噌の目方を測っています。唐突にこんな記事が出てくるので、これが何を意味するのかはよくわかりません。それにしても、幽学先生一派と公事宿の付き合い方は面白い。本来は被告人ですから、公事宿に泊まっていないといけないのですが、借家住まい。これでも双方に利益となっているのでしょう。


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