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ひたすら待機の日々 嘉永7年4月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年04月15日 | 大原幽学の刑事裁判
ひたすら待機の日々
嘉永7年4月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年4月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝、幸左衛門殿が帰っていった。小生は万徳(公事宿)へ袴代を持って行った。節五郎殿は長左衛門殿の所へ行き、部屋での奉公(バイト)について相談してきたとのこと。小生は、蓮屋(公事宿)へも袴代を持参。幽学先生は買物に出かけ、昼過ぎにご帰宅。
⇒上記をアレンジしてみました。
朔日であり、お世話になっている公事宿にご挨拶。万徳(公事宿)と蓮屋(公事宿)に袴代を持っていった。
こういう仕事は弟子の役目である。幽学先生は買物に出かけ、昼過ぎにご帰宅。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が「袴代」を公事宿に届けています。「袴代」は、おそらく公事宿への付届け。大原幽学たちは、本来公事宿に宿泊しなければならないのですが、経費節減のために借家に住んでいます。そのことを公事宿に黙認してもらうためのお金が「袴代」の正体ではないでしょうか。
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嘉永7年4月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿は旗本の石川様の新部屋で足軽奉公をすることが決まり、長左衛門殿が付添って石川様方に行った。
⇒上記をアレンジしてみました。
○節五郎殿は仕事先を探しており、昨日長左衛門殿の所へ行って相談してきた。旗本の石川様の新部屋で足軽奉公の仕事があり、今日、長左衛門殿と一緒に石川様のところに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
良祐は先日バイト先を変え、旗本石川家の足軽部屋に住込みで仕事をしています(3月10日条)。節五郎も同じ旗本石川家の足軽奉公の仕事に決まりました。長左衛門が付き添っているところを見ると、彼は仕事の紹介をしているものと思われます。

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嘉永7年4月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿は昨日石川様方に行ったが、今日の夕方道具を取りに借家に一度戻ってきた。小生は石川様の門まで布団を持参した。
幽学先生が買物に出かけて、夕方に帰って来られた。
⇒上記をアレンジしてみました。
○節五郎殿は昨日から住込みの仕事が決まったが、何も持っていかなかったので、身の回りの物を取りに借家に戻ってきた。節五郎殿の布団は小生が持っていった。
幽学先生は本日も買物。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
足軽奉公は住込みです。節五郎は昨日から旗本石川家で住込みで働きはじめましたが、足りないものを取りに借家に戻ってきました。五郎兵衛は布団を担いで、節五郎に同道。その間、幽学先生はのんびりとお買い物です。
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嘉永7年4月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
昼前に高松力蔵様と神谷様が借家に来られた。力蔵様のことでお詫びをされたが、幽学先生は取り成しをされた。夕方まで様々な話があり、神谷様は夫婦の中での問題についてもご相談になった。幽学先生のお話しに感服され、こんどは妻を連れて相談に来ると言ってお帰りになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
日記からは高松力蔵と神谷様の関係がよくわかりませんが、おそらく力蔵の養子縁組上のトラブル(3月17日条)ではないかと思われます。であれば、神谷様はトラブルの相手方のはずですが、話しをしている間にすっかり大原幽学に心酔。これが幽学先生の魅力なのでしょう。

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嘉永7年4月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿が借家に来て、小生と共に会計の帳面に誤りがないか調べた。間違いが多くみつかり、幽学先生から厳しく叱られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛またもや幽学先生に叱られてしまいました。五郎兵衛は性格も優しく、江戸滞在中は一日も欠かさず日記をつけていたほどの筆まめですが、数字の方の才能はなかったようです。会計帳面に誤りが多く、幽学先生から雷が落ちました。
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嘉永7年4月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は高輪へお出かけになり、昼過ぎに戻られた。
茂兵衛殿は昼前に出かけ、惣右衛門殿が借家に来て髪を結い、湯に入って昼飯を食べて帰った。伊兵衛父も借家に来て、夕方には仕事場に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生、高輪(現東京都港区高輪)へお出かけ。高松彦七郎に会いに行ったものと思われます。「高輪」はペリー来航以降、幕府の外交上、防衛上の拠点となっており、御家人の高松彦七郎は同所で勤務しています。
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嘉永7年4月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が昼前に借家に来て、小生に「節五郎殿が入った旗本石川家で辻番の夜番の口がありますよ」との話しあり。早速、幽学先生にご相談したところ、「夜番で勤めて、借家に来る人への世話が行き届かなくなるではないか!」と叱られた。
昼過ぎ、高松彦七郎様が借家にお出でになられ、二時間ほどでお帰りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の仕事がなかなか決まりません。道友の良祐殿が心配して、仕事を紹介してくれました。しかし、紹介してくれたのは辻番の夜番。五郎兵衛は借家の雑事を担当しているので、両立の見込みはありません。それがわからず幽学先生に話しをもっていくから、叱られてしまうのです。

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嘉永7年4月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・節五郎殿は借家に昼前に来て、夕方に帰った。伊兵衛父や武左衛門殿も来たが、昼前には帰った。
・幽学先生は寝巻、幸左衛門殿と良祐殿は綿入れを船で地元に送ることになり、小網町まで茂兵衛殿が持っていった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・節五郎殿や伊兵衛父は夜番仕事をしており、夜勤明けで借家に顔を出しています。
・江戸の小網町(現中央区日本橋小網町)には江戸時代、行徳河岸があり、ここから行徳行きの船が出ます。小網町は、千葉方面への物流の拠点だったのです。
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嘉永7年4月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が来て写し物をし、夕方に帰り、幽学先生は買物に出かけて、昼過ぎにはお帰りになり、伊兵衛父が夕方に来て、辻仲間の失敗談を話していた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「伊兵衛父」こと林伊兵衛(1794~1870)。十日市場村(現旭市)の林家の当主で、このとき60歳を超えていますが、辻番で夜勤のバイト。すっかり職場にも馴染んでおり、職場の失敗談を五郎兵衛に話しています。

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嘉永7年4月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿が借家に来た。「段々と勝手も分かり、毎日夜番をしております。随分と働きやすくなりました」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
節五郎が辻番の仕事を始めてから約一週間。だいぶ辻番の夜の仕事に慣れてきたようです。何事もなければ、巡回と待機であり、さしたるスキルがなくてもできたのでしょう。。

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付1 「足軽」(4月2日条)
節五郎が足軽の仕事をするとの記事がありました。足軽につき以下のものが参考となります。
尾脇秀和『お白洲から見る江戸時代』
「足軽は戦時なら前線に立つ雑兵である。腰に大小二本を帯びる「帯刀人」の範疇ではあるものの、士には決して含まれない。平時は門番などの単純な守衛業務などに従事し、勤務時の服装は青色や萌黄色の法被(羽織に似た形状)などを着ている。その背中などには 主家の印が入っている(『徳川盛世録』)。」

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付2 辻番の仕事
辻番の番人は 夜分、六尺棒を持って、廻り場(管轄区域)を巡廻するのが仕事。不審な者が来たならば留めておき、支配の役人へ届けなければなりません。屋敷から幕府の目付へ連絡して、目付の差図により動く定めでした。
何事もなければ、巡回と待機であり、スキルがなくてもできたのでしょう。そうでなければ、地方から出てきた農家にすぐに務まるわけがありません。
参考文献:石井良助『江戸の町奉行』



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