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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 奈良、高野山、大阪、広島編 4月15日-4月23日

2024年04月27日 | 伊勢参詣日記
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 奈良、高野山、大阪、広島編 4月15日-4月23日
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四月十五日 #明治18年伊勢参詣
天気良し。奈良の名所猿沢池を訪れる。衣掛柳あり。春日神社、大佛様等を参拝する。苑に博覧会、また、三笠山、手向山等も見え、風景佳し。十二時に宿へ戻り昼食。
午後は大和七寺の内、法華寺、西大寺、菅原天神、唐招提寺、西の京を参拝。皆宏壮であるが、屋根等が破損している。
夜は、法隆寺大黒屋鶴松方へ泊。宿料二十銭。
(コメント)
・奈良に着きました。見どころは沢山ありますが、まず訪れたのは猿沢池。興福寺の放生池。周囲は360mほどですが、興福寺五重塔が近くにあり、それとあいまって美しい風景となっています。「猿沢池月」 は南都八景のひとつ。衣掛柳というのは、采女が衣を柳に掛けて入水してしまったという話しなので、その柳が明治時代に本当に存在したというわけではないのでしょうが、常吉は「衣掛柳あり」と記しています。現在では、衣掛柳の碑があるのみです。
・春日神社、奈良の大仏。これは現代でも有名ですから、コメントの要はありませんが、「苑に博覧会」という記載が興味を惹きます。これは、奈良博覧会です。奈良博覧会は、明治8年、東大寺大仏殿・回廊で初めて開催され、明治27(1894)年までに18回開催されたそうです。
・常吉たちは、昼食後、大和七寺を廻っています。寺は「屋根等が破損」しており、荒廃している様子も常吉は記しています。廃仏毀釈の影響は、明治18年にもまだ残っていたようです。
・法隆寺までたどり着き、寺近くの宿に泊まっています。
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四月十六日 #明治18年伊勢参詣
法隆寺近くの宿を出立。天気良し。法隆寺を参拝した後、龍田に行き、龍田神社を参拝。その後、達磨寺に行く。達磨大師の古跡有り。五十丁先に染井寺(石光寺) という寺有り。昔、中将姫が井戸の水を五色に染めたため、染井戸という。寺もそのゆかりから、染井寺という。
そこから、七・八丁行き、當麻寺を参拝。
當麻寺から一里半位行き、高田に到る。辻屋甚三郎方で昼食。十五銭。
そこから四十丁行き、神武天皇の御陵を参拝。御陵は畝傍山の麓にある。
五十丁行き、飛鳥村。飛鳥明神社を参拝。紀ノ国屋善治郎方へ泊。宿料は二十銭也。
(コメント)
・法隆寺から龍田神社へ。法隆寺は有名ですから、コメントの要はないでしょう。龍田神社は現在の奈良県生駒郡斑鳩町龍田にあり、法隆寺とも縁が深い神社です。
聖徳太子が法隆寺の寺地を探し求めていた際、龍田大明神に逢い、お告げを受けて法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したという伝承があります。
達磨寺。この寺もまた聖徳太子との関係が深いのです。そのエピソードは、『日本書紀』におり、聖徳太子が道中に飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えましたが、亡くなってしまいました。聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えており、この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになりました。
今も本堂の下に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があり、これが達磨大師の墓をといわれていたのです。常吉が「達磨大師の古跡有り」というのは、この古墳のことを指していると思われます。
・染井寺。正式には石光寺。奈良県葛城市染野にあります。常吉が、「昔、中将姫が井戸の水を五色に染めたため、染井戸という。寺もそのゆかりから、染井寺という」と記しているとおり、中将姫伝説に因む寺。次に訪れた當麻寺も中将姫と関わりがあります。同寺に伝わる『当麻曼荼羅』は中将姫が織ったとされています。
・昼食を取った「高田」は、大和高田(現大和高田市)のこと。
・昼食後、神武天皇陵へ。常吉が「御陵八畝火山(畝傍山)の麓にある」と記しているように、畝傍山の北東のふもとに位置しており、「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)」とも呼ばれています。
・常吉一向は飛鳥村(現奈良県高市郡明日香村)へ。本日は同村で泊まりです。
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四月十七日 #明治18年伊勢参詣
飛鳥村を出立。雨。五丁行き橘寺。橘家の古跡である。四丁先の西国第七番札所岡寺を参拝。多武峰に至る。藤原鎌足公の古跡。談山神社は日光に次ぐ位である。宝物御座敷等を参拝。
四軒茶屋の松屋善次郎方で昼食。九銭。
峠が険悪で難渋する。峠から四里で吉野山。桜は満開ではないものの、満山桜木で風景の佳き事この上ない。後醍醐帝御陵を参拝。吉野の佐古屋平衛門方へ泊。泊料は十八銭。
(コメント)
・本日はまず飛鳥(現明日香村)の神社仏閣を参拝。橘寺、岡寺、多武峰、今猶神社を回っています。
・橘寺は聖徳太子誕生の地といわれる寺。常吉は聖徳太子には言及せず、「橘家の古跡」とのみ紹介しています。
・岡寺は約1300年前、天智天皇の勅願によって建立された寺。西国第七番の札所となっています。
・多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山、および、その一帯にあった寺院のことをいいますが、常吉は寺院のことを指しているとのでしょう。『日本三代実録』に、858年(天安2年)「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されており、常吉も「藤原鎌足公の古跡」と記しています。
・午後は多武峰から吉野へ峠道を行きます。峠越えには難渋しましたが、吉野山の桜木には感動の面持ち。桜は満開ではなかったものの、景色は素晴らしいものでした。
・吉野について、後醍醐帝御陵を参拝しています。

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四月十八日 #明治18年伊勢参詣
吉野を出立。晴天。吉野川に添って五里、宇野駅に至る。笠屋源兵衛方で昼食(四銭)。
同所より小舟で学文路(かむろ)まで行く(里程四里)。午後二時ころ、米屋才右衛門方へ荷物を預け、高野山へ。
午後七時頃、高野山へ着く(山路百五拾丁)。逼照光院に泊。「宿料はいかほどにてもよく、お心のままに」といわれて、酒代と合わせて三十銭、さらに先祖供養のために五十銭を奉納致した。今日の里程十二里、その内舟路は四里。
(コメント)
・本日は晴天。午前に吉野からうの駅まで移動。吉野は後醍醐天皇陵のほかは参拝していません。満開の桜を期待していたのかもしれませんが、桜は満開ではなく残念なことでした。それにしても、4月下旬近くなっても、吉野の桜が満開ではないというのは驚きです。今がそれだけ温暖化しているということでしょう。現代では、例年の見頃は4月上旬~4月中旬と説明書されており、2023年の夜桜ライトアップは、4月1日(土)~4月16日(日) でした。
・吉野から吉野川沿いに宇野へ。宇野からは船で学文路(かむろ)(現和歌山県橋本市学文路)へ。学文路の米屋で荷物を預けて、高野山を目指します。米屋では昼食を食べただけで、宿泊はしていないので、学文路にはそのような荷物預かりの場所があったのでしょう。
・高野山の宿坊は逼照光院。「宿料はいかほどにてもよく、お心のままに」といわれてしまい、酒の勢いもあったのか、酒代と合わせて三十銭+先祖供養のために五十銭=80銭と普段の宿代の4倍を支払っています。
・本日の旅程。吉野から高野山。
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四月十九日 #明治18年伊勢参詣
高野山を参拝してから出立。天気晴天。学文路(かむろ)駅まで戻り、米屋才右衛門方で昼食(十銭)。
同所から(人力)車で紀見峠の下まで乗る(里程二里半)。峠から百丁下った三日市の油屋庄兵衛方で泊。宿料十八銭。
(コメント)
・午前は高野山を参拝し、学文路(かむろ)の米屋まで戻ります。米屋には昨日荷物を預けていたのでした。米屋さんは荷物預けや昼食の需要に応えているようです。
・この後は移動です。米屋さんから人力車で紀見峠の下まで。紀見峠(きみとうげ)は、紀伊国と河内国の境。現在の和歌山県橋本市と大阪府河内長野市の境にある峠です。そこから、三日市(現大阪府河内長野市三日市)までは1キロ強です。本日は三日市泊。
・本日は和歌山県から大阪府南部にたどり着いたことになります。
学文路⇒紀見峠⇒三日市

学文路 to 三日市町

学文路 to 三日市町


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四月二十日 #明治18年伊勢参詣
三日市を出立。雨。五里行き、堺の山家喜兵衛方で昼飯。(人力)車に乗る。妙国寺のソテツ、難波屋の笠松を見物する。住吉四社を参拝。島津公の御誕生の石で安産石取替、大海神、奥の天神社を参拝。天下茶屋、豊臣秀吉公の御殿、御宝物を拝する。
大坂。四天王寺、生魂神社、高津の神社、北向の八幡宮を参拝。午後五時頃、道頓堀戎橋際にある大和屋孫三郎殿方に泊。宿料二十三銭。
(コメント)
・三日市(現河内長野市)を出発。残念ながら雨の中を歩いていかなければなりません。五里(約20キロ)歩いて、堺(現大阪府堺市)に到着。
・堺で昼食を取って、人力車で各所を巡ります。堺では、まず妙国寺⇒難波屋の笠松を見ています。妙国寺では蘇鉄、難波屋では笠松といずれも樹木を見るのがメインだったようです。
妙国寺(現堺市堺区材木町東)のソテツは、国指定天然記念物となっており、現存しています。
難波屋は茶屋で、その前栽には大小2本の老松があり、地をはうばかりに四方に枝先をひろげていた形が、笠に似ており、笠松とよばれていました(昭和20年に枯死)。
・「住吉四社」は、住吉大社のこと。元大阪市住吉区住吉。常吉が「四社」と記しているのは、祭神が四柱だからでしょう。
・奥の天神社は、生根(いくね)神社が正式名。現大阪市生野区。本殿は淀君の寄進で、桧皮葺・壱間社流造りの桃山時代の様式を残し、慶長5~6年(1600ごろ)の建立と伝えられている。境内に天神社も併祭しているので、一般に「奥の天神」といって親しまれている。
・天下茶屋。豊臣秀吉の故事に因み、常吉が訪れた当時は約5000平方メートルの敷地に屋敷や茶室・井戸・池などを備えていたといた屋敷跡の一部が残っていたのですが、1945年の大阪大空襲で焼失し、現在は天下茶屋「跡」として偲ばれております。
・道頓堀戎橋際にある大和屋にて泊。ロケーションが良いからか、宿料はこの旅行でも最も高い金額となる23銭です。
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四月二十一日 #明治18年伊勢参詣
曇。道頓堀朝日座で芝居見物。料金三十銭。午前七時頃から出かけ、午後五時頃宿に戻る。
(コメント)
・今日は終日芝居見物。東京では千歲座(今の明治座)に芝居見物に行っていました(3月18日条)。この旅行で芝居見物は2回目。東京では物料一人前61銭(昼飯付)でしたが、大阪では30銭。倍以上違います。その理由は歌舞伎と浄瑠璃の違いのようです。朝早く出かけ、夕方までたっぷりと見学できるのが、当時の芝居見物のようで、午前七時頃から午後五時頃まで外出しています。
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四月二十二日 #明治18年伊勢参詣
天気良し。造幣局等見物、天満宮、中の島、豊国神社、東西本願寺を参拝。宿に戻り昼食。午後三時、天保山の下まで小舟に乗り、徳山丸という蒸気船に乗りかえ、午後七時広島へ向けて出帆。
(コメント)
・本日はまず造幣局、天満宮を見学。今も大阪の名所ですが、明治18年も同様だったようです。
・豊国神社。明治になってからの神社です(徳川政権下では豊臣秀吉を祀る神社を建立できるわけかありません)。現在は大阪城内にありますが、明治時代、大阪城は陸軍省が所管しており、城内に神社を建てることができず、北区中之島の現在大阪市中央公会堂がある場所に創建されました。
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四月二十三日 #明治18年伊勢参詣
諸港に寄り、午後十時広島。広島から一里程手前の宇品港に上陸(海上百二十里)。大坂から広島までの蒸気船運賃は二円二十五銭。この値段でも中等である。
島で少々休んでから、小舟に乗って宮島へ。
(コメント)
・大阪から船で広島へ。昨夜の午後7時に大阪を出発し、本日午後10時に広島ですから、24時間以上かかっています。時間の感覚が現在とは違いますね。現代では新大阪〜広島は1時間半程度です。
・現在の広島港の旅客ターミナルは、「広島港宇品旅客ターミナル」といい、広島の海の玄関口です。常吉らが到着した宇品港が発展して現在の形となったのでしょう。
・宇品港から宮島は小舟で。舟運がまだまだ現役で活躍している時代です。
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