南斗屋のブログ

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武士道裁判-横浜BC級戦犯23号事件  (千葉県で起きた事件)

2021年11月15日 | 横浜BC級戦犯裁判
(事件の概要)
 1945年5月25日夜、米軍B29機が千葉県長生郡日吉村(現・長柄町)に撃墜された。日吉村の長栄寺に駐屯していた東部第426部隊第1大隊第1挺身中隊が処理にあたった。中隊長はM中尉(当時)(以下、「M中隊長」)であった。B29の搭乗員11人であり、4人は墜落現場で死亡が確認された。翌26日、残りの7人のうち、5人は捕虜として茂原憲兵隊員によって連行されたが、残り2人は瀕死の重傷を負っていたこともあり、第1挺身中隊に預けられた。
 2人の米兵のうち、1人は間もなく死亡した。もう1人のダーウィン・T・エムリー少尉(以下、「エムリー少尉」)も重傷であったところ、M中隊長は、同人の命が助かる見込みはないとして、S曹長に命じて斬首させた。その後、K見習士官の指示によって、エムリー少尉の死体は初年兵の刺突演習の材料とされた。
 エムリー少尉の斬首につき、M中隊長は、武士道に基づく介錯であったと主張したことから、本件は武士道裁判ともいわれている。

<事件の概要についてのコメント>
 概ね争いのない事実をもとに事件の概要を書きました。
 本件事件は「茂原事件」とも呼ばれていますが、被告人となった者や被害者エムリー少尉も茂原には赴いていません。事件は、日吉村内で起きていますので、日吉村事件と呼ばれるべきでしょう。POW研究会も「千葉県日吉村事件」としていますし、長柄町史でも茂原事件とするのは正確ではないとしています。
 ところで、長柄町史では、本件について5月24日にB29が墜落、翌25日に本件事件が起きたとしています。しかし、他の参考文献はいずれも5月25日墜落、26日本件事件発生としていますので、この点長柄町史は間違っています。

(M中隊長の起訴内容)
 M中隊長は、以下の罪状項目で1946年3月に起訴されました。
1 昭和20年5月26日前後、被告人Mは己が指揮下の兵たるSに対し、B29の爆撃手エムリー少尉と認定せられたる負傷せる一米軍俘虜を殺害するを命じたり。ここにおいてSは、前記不法なる命令に随い、残忍かつ非道にも刀を以て該米軍俘虜の脊柱を頚部にて切断し、殺害せり。
2 昭和20年5月26日前後、被告人Mは、己が部下の部隊により抑留中なりしB29の爆撃手エムリー少尉と認定せられたる負傷せる一米軍俘虜に対し、適当かつ十分なる医療を施すを怠りしにより、前記挺身中隊隊長として己が職責を不法にも無視しかつ怠った
3 昭和20年5月26日前後、被告人Mは、己が部下の部隊により抑留中なりしB29の爆撃手エムリー少尉と認定せられたる一米軍俘虜の死体をあるいは部下の銃剣にて刺突し、あるいはこれを切断するを許容せることにより部下を取締り抑制すべきを怠り、前記挺身中隊隊長として己が職責を不法にも無視しかつ怠った。

(K見習士官の起訴内容)
 K見習士官は、以下の罪状項目で1946年3月に起訴されました。
 被告人Kは、昭和20年5月26日ころ、B29の爆撃手エムリー少尉と認められる米俘虜の死体を、故意且つ不法に銃剣を以て刺突し、以てこれを損壊したるものである。

<起訴内容についてのコメント>
 23号事件で起訴されたのは、M中隊長及びK見習士官の2人です。2人は、1946年3月に起訴され、共同被告人として、審理されています。
 M中隊長は、①俘虜の殺害、②適切な医療を施さなかった、③部下が行った死体の刺突・切断を許容したという3点で起訴され、K見習士官は被害者の死体の損壊で起訴されています。
 本件は、横浜裁判で、B29乗員に関するものとしては初めてのケースです。
 本件事件はM中隊長が起訴された23号事件を含めて3裁判に分かれています。23号の次に起訴されたのが、死体の刺突等を実行した兵士たちであり、最後に起訴されたのがエムリー少尉を斬首したSです。斬首の実行行為者であったSが最後に起訴されたのは、Sが逃走していたからです。
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