南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

梟首の量刑が是認された事案 仮刑律的例 40

2024年08月19日 | 仮刑律的例
梟首の量刑が是認された事案 仮刑律的例 40
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(要旨)賀茂郡福本村出身の常四郎(浮過喜助の弟)は因島鏡ノ浦の独り身の女性商人宅に侵入し、同女を殺害し、盗みを行った。この者は梟首にすべきである。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【安芸広島藩からの伺】
明治2年2月24日、安芸広島藩からの伺い。

賀茂郡福本村の常四郎(浮過喜助の弟)が、御調郡因島鏡ノ浦古手の商人すみ(独身)の家に忍び込み、殺害した上で盗みを働きました。
これは不届きなこの上ない行為です。春に大赦が布告され、それ以前の罪については原則として罪に問われないことになっておりますが、事案からして到底許すことが出来ません。
当藩としては、引き回しのうえ、村内で獄門に処すべきと思料しておりますが、死刑は御裁許を経なければならないとの仰せでありますので、お伺いする次第です。

【明治政府からの返答】
明治2年6月3日
天皇から裁可を経て以下のとおり返答する。
この者は、独り身の女商人方へ忍び入り、同人を殺害し、盜みを働いており、不届至極である。よって、梟首が相当である。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(コメント)
・安芸広島藩からの伺いです。
住居侵入・強盗殺人罪につき広島藩は梟首相当と考え、明治政府においても梟首が妥当としています
・事件の発生場所は、「御調郡因島鏡ノ浦古手」です。現在の広島県尾道市因島鏡浦町。
「御調郡」は「みつぎ」と読みます。「古手」は小字になるためか、現在の地図上ではでてきません。
・事件の発生場所は、商人をしていた「すみ」という名前の女性。「独身」との記載がありますが、一人で住んでいたことから、加害者の悪質性を強調したかったのでしょうか。女性の一人暮らしを狙って犯罪を起こしたのであれば相当に悪質です。
・加害者は常四郎というもので、賀茂郡福本村の出身、浮過喜助の弟であることが記載されています。「浮過常四郎」と書けば良さそうなものですが、その者の所属を示すのが江戸時代の決まりで、その考え方が踏襲されていることがわかります。賀茂郡福本村は、現在の広島県東広島市西条町福本です。
・本件の刑は梟首であり、この当時で一番重いものです。伺いでは「引き回しのうえ獄門」と記載していますが、同じ意味です。本件は住居侵入・強盗殺人罪の事案であり、現代では無期懲役以上になりますから、梟首との判断は当時の量刑相場からは一般的なものでしょう。
・この伺いからは、梟首がどのような場所で執行されていたかが分かります。引き回しのうえ、「村内で」獄門に処すべき、と書かれており、加害者本人の所属していた村(本件では賀茂郡福本村)で獄門が行われます。
・現代の死刑は拘置所の刑場において行われますが、江戸時代や明治初年には必ずしも刑場で行われていたというわけではありません。
犯罪発生地や死刑囚の住んでいた村などでも行われており、これを吉田正志は「所仕置き」とネーミングしています(吉田正志『仙台藩の罪と罰』)。
本件も所仕置きの事案といえます。
・江戸時代のものですが、所仕置きの例として、木更津村(千葉県木更津市)でのものがあります。刑に処せられる者の父親所有の畑で行われるというもので、かなり非人道的です。
刑の内容:打首(斬首)
刑に処せられる者:〇〇右衛門の倅
執行日時:元治2年2月5日夕刻(1865年)
執行場所:木更津村の死刑囚の父親(〇〇右衛門)所有の畑
刑の執行に携わった代官側役人の数:68名
執行の公開の有無:公開
見物人:約2万人
*重城良造『重城保日記物語』

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 五郎兵衛、詰められる 嘉永7... | トップ | 土浦の水害 文政12年8月中旬... »
最新の画像もっと見る