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土浦の水害 文政12年8月中旬・色川三中「家事志」

2024年08月22日 | 色川三中
土浦の水害 文政12年8月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部を現代語にしたものです。
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文政12年8月11日(1829年)晴
・銭亀川の水位は昼過ぎ9合5分まで上昇。夕方には10合を超えた。天風桶や土の俵を積む等で町中大騒ぎである。数日前から病気と称して町役人の仕事を辞退している。
・この災害が落ち着くまでは、町役人退任の話しを進めるわけにはいかない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
天候は回復して晴れましたが、土浦近くを流れている銭亀川の水位は上昇。溢水するかどうかでギリギリの対応を迫られており、町中大騒ぎとなっています。三中は町役人の仕事を辞めようとしてるため、病を理由に町役人としての仕事をしておりません。災害対応も第三者として見ています。

〈その他の記事〉
・朝にかなりの霞。風雨はなし。残暑が厳しく、日中は暑し。
・今年、半夏を100文で購入。房州の製法を学び質向上に努め、江戸でも売れるようになった。昨年は価格が高騰し、300貫目を出荷。製造者も増え、技術向上。房州産半夏が天下一品とされるが、製法次第で品質差はない。(⇒詳訳末尾付3)

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文政12年8月12日(1829年)
本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

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文政12年8月13日(1829年)晴
・10日の雨で、水位は増している。出水は下宿の石屋伊助あたり迄来ている。もっとも6年前(申年)に比べれば水位は五六寸低い。
・中村本陣、伊勢屋、中高津栄蔵よりそれぞれ茄子一籠を、谷田部の佐助方より梨一籠をもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
一昨日の記事では、土浦近くを流れている銭亀川の水位は上昇しつつも溢水していなかったようなのですが、この間に溢水して下宿(しもじゅく)の石屋あたりまで水が来てしまっているようです。色川家はまだ余裕があるのでしょう。

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文政12年8月14日(1829年)
本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

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文政12年8月15日(1829年)晴ときどき曇
本日は二百二十日。夜満月清し。
#色川三中 #家事志
(コメント)
二百二十日は、立春から220日目で天候が悪くなり、農家にとっては厄日とされていました(2024年は9月10日となります)。しかし、今日の天気は概ね晴れでした。また、今日は中秋の名月。満月が清々しく空にかかっています。

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文政12年8月16日(1829年)晴
入江(名主)と会い、町年寄を辞めたい旨申し入れた。入江は、「そのことはまた話しましょう」と即答を避けた(⇒末尾付1)
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商を終え、町年寄退任を決めていた三中でしたが、水害で町役人が対応に忙しいことから、その話しを進めていませんでした。ついに本日名主に切り出しました。名主は三中の進退について明言せず、先送りにしています。

〈その他の記事〉
・新七(田中口の太兵衛の悴)からの帰参願い(8月6日条)は認められた。礼として菓子一袋を頂戴した。
・二分判金の通用不足に関する措置の町触れを写した(⇒末尾付2)



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文政12年8月17日(1829年) 雨
・中城の田丸屋五兵衛の伜が結婚。その祝いに五兵衛が府中年代二状を持ってきた 。
・夕方、川口隠居(祖父)から教訓の書が送られてきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
息子が結婚したので、一家の長の田丸屋五兵衛挨拶に来ました。こういう挨拶回りが、この時代の基本なのでしょうね。なお、お嫁さんは翌日挨拶に来ており、別々の挨拶廻りとなっています。


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文政12年8月18日(1829年) 晴
・銭亀川は7合で落ち着いている。2、3日前に比べて水位は3寸ほど減少。谷原(現つくばみらい市)では稲穂の上5寸ほどの水位という。
・今年は瘧(マラリア)が流行。この辺りでも家ごとに2、3人もかかっている。病まない人がいな状態。
#色川三中 #家事志
(コメント)
マラリアは日本でも戦前まではみられたそうです(現在は国内での感染による発生はない)。江戸時代後期も結構マラリアが流行。三中自身も昨年8月に瘧に罹患していました。この時代は感染症対策もしておらず、流行るのは致し方ないという感じです。

〈その他の記事〉
・田丸屋の嫁(なを)が挨拶に来た。半紙二状を持ってきた。
・安村玄脩老から私と入江(名主)宛に書状が届く。内密の話ありとのこと。
・駒場の川澄氏から薬を取りに使いが来て、一晩泊めた。
※「駒場」は現取手市駒場でしょうか。であれば、土浦までは片道約30キロほどです。
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文政12年8月19日(1829年)
金次郎(弟)を初めて一人で北在(北ルート)の営業に行かせる。本日出立。
#色川三中 #家事志
(コメント)
先月の行商では弟の金次郎を同行させて一緒に営業をさせていましたが(7月17日条)、今回は弟一人で営業に行かせています。早く一人前にさせるためでしょう。

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文政12年8月20日(1829年)
曇り。夜は大風雨甚だし。
#色川三中 #家事志
(コメント)
7月下旬から大雨が続き、土浦では水害が発生しています。一昨日の記事では「銭亀川は7合で落ち着いている」という状態でしたが、今日の夜からまた大風雨。さらなる水害が心配です。

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付1 入江全兵衛殿(名主)との内談(8月16日条)
内容
入江(名主)「昨日、御奉行所からお呼び出しがあった。中城町年寄の金之允及び東崎年寄の甚五兵衛は、普段から勤務がよろしくなく、今回の出水騒の勤めもよろしくないので、町役人を解任するというのだ。御慈悲で自主退任ということにはなりそうなのだが、両名から退役願を差出させるように、内内に話しをせよといわれてしまった。
それと、東崎町の問屋の金兵衛のことだが、先日、御公儀様のお役人が来駕された際に不埒な振る舞いをしたので、問屋職を罷免とするとのお話だった。」
三中「私の方もここ数日体調不良で参上することもできず、誠に申し訳ない。今も何となく気分がすぐれない。一昨夜、町役人の栗山殿方まで伺ったのですが、お留守でしたので話せておりません。
もう何年も前からひどく病気がちで、お役を仰せつかった際にも何度もお断り申し上げたのは御存知でしょう。お役をお受けしないのもかえって不調法と思い、お受けして今日まで勤めてきましたが、時々病気の発作があり、お役に十分に立てず、退役するしかないと思っています。町役人を退くことでご迷惑をおかけします。」
入江(名主)「このことはまたお会いしたときにお話ししましょう」

後刻、栗山氏が来られたので、実情を詳しく説明した。別の思惑があってこのようなことを申し上げているのではなく、病身では任に堪えかね、不調法な勤めとなるのは必定であるため、何卒御役御免を賜りたいこと、また重ねてご迷惑をおかけすることをお詫び申し上げた。

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付2 二分判金の通用不足に関する措置
(8月16日条)

水野出羽守殿からの御渡しのあった御書付の写

二分判金の通用が不足しているため、去年(子年)から追々吹増しするようにと指示されていました。
この吹替分の二分判は、既に出した触れのとおり、小判や一分判と同じく金座の極印の文字を草字に直したものです。従来からの二分判金も共に通用させていましたが、後年になって極印が二通りあっては紛らわしいということもあり、今回、すべて草字に直すことになりました。
真字の極印の二分判を持っている方は、江戸、京、大阪をはじめ各地で、吹直し金引替御用を務めているところへ持ち込み、引替を行って下さい。
ただし、引替が済むまでの間は、今まで通り真字の二分判も問題なく使用できます。
引替金は、草字の二分判だけでなく、小判、一分判、一朱判などとも引替ることができます。
焼二分判でも、真字の極印が分かるものであれば、持ち込み次第で引替を行いますので、この旨を心得て早々に引替を行うようにしてください。
以上をお触れとして下さい。
七月
以上、水野出羽守殿からの御書付の内容を町方へお伝えするように藩からご指示がありました。
丑年8月

※「水野出羽守」は水野 忠成(みずの ただあきら)のこと。当時、老中職


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付3 半夏について(8月18日条)

今年は半夏を100文で購入した。
以前は当地では半夏の製法が知られていなかったが、未年の秋、下総の太七から房州の製法を教えてもらった。
その後、徐々に質の向上に努め、江戸へ送っても房州産と同様に売れるようになった。昨年は半夏の値段が高騰し、300貫目もの出荷量となった。
中城の菊部親兵衛、高砂屋左衛門という人も製造を始め、土浦でら3軒の業者がある。
地域によっては少しずつ製造を覚え、上手にできるようになった人もいる。私が江戸に住んでいた頃は、会津産の半夏の製法は良くなかったが、最近は良くなってきた。それでも当地の製法には及ばない。
現在、房州産半夏を天下第一品と称えているが、製法さえ良ければ、土地によって品質に差が出るようなものではない。以前は土地柄的に良質な半夏が作れなかったが、世の中の動きとともに状況が変化し、以前はできなかったことも可能になった。

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