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幽学先生との不和続く 嘉永7年閏7月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年09月05日 | 大原幽学の刑事裁判
幽学先生との不和続く 嘉永7年閏7月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年閏7月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。朝掃除、網すかり。夕方に夜具上げ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は仕事の記事のみ。単調この上ないですが、このようなことに対応できるの五郎兵衛です。


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嘉永7年閏7月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・本日は本番。朝掃除。網すかり。夕方に麹町へ油を買いに行き、夜番を勤める。
・御殿様は半供(半分のお供)で下屋敷をお出かけになった。日没過ぎにお戻り。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は御殿様は下屋敷にお出かけ。お供の人数は通常の半分だったようで、五郎兵衛の日記では「半供」という言葉が使われています。御登城のような正式な場合はフルバージョンのお供、そうでない場合は「半供」という使い分けがあったようです。

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嘉永7年閏7月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。網すかり、幸左衛門殿と二人で髪結、牛込の湯に行き、麹町三王(山王)祭り。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日は非番で、髪結い、銭湯だけではなく、麹町の三王(山王)祭りを楽しめたようです。

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嘉永7年閏7月24日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。朝、掃除、網すかり、昼より御弓場の設営、夕方御弓場の片付けと夜具上げ。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
弓場の設営、片付けという仕事が結構頻繁にあり、屋敷の武士は弓の鍛錬をしていることが分かります。設営と片付けを繰り返しているので、弓場を常設ではなく、敷地を他の用途にも使用しているようです。

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嘉永7年閏7月25日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・本日は本番。 朝、掃除、御床下げ。一日中網すかり。夜番も勤める
・御殿様は半供、御忍びで朝早くから日の入りころまで外出。仙様と御隠居様もご一緒された。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日も仕事の記事のみですが、殿様の御忍びの記事が興味深い。殿様の御忍びは半供(フルバージョンの供の半分のことと思われます)で、たっぷりと遊ぶ為か、朝早くから日の入りまで出かけています。

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嘉永7年閏7月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。朝早くから松枝町の借家に行き、宜平殿と二人で会計帳面の作成。漬物も拵えて夕方には借家を後にした。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は仕事が休みなので、松枝町の借家に出掛けています。会計帳面の作成は、宜平と二人で担当することになったようです。
幽学先生はいまだに五郎兵衛と顔を合わせないのでしょうか、記事には幽学先生の名前はでてきません。

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嘉永7年閏7月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。朝、掃除、御弓場の片付け。夕方、御床上げ。幸左衛門殿が松枝町の借家に行かれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日は幸左衛門が、松枝町の借家に出掛けています。幸左衛門と五郎兵衛は同じ職場=藪家(旗本)の屋敷で働いていますので、お互いの動向について緊密に連絡を取っていたのでしょう。


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嘉永7年閏7月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・本日は本番。幸左衛門殿と二人で髪結い。夜番も勤める。
・御殿様は朝から本所へ御忍びで御狩猟に出かけられた。仙様もご一緒。御半供。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
殿様は本日もお忍びのお出かけです(幽学先生の動向より、殿様の動向の方が最近は多くなってしまってます)。7月25日条もお忍びで出かけていますが、何をしたかにつき、日記での言及はありませんでした。今日のお忍びは本所での狩猟。

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嘉永7年閏7月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。昨日、長部村から良左衛門君たちが江戸に着いた。奉行所の帰村許可は本日までであったので、奉行所に着届け等の手続きを行う。御奉行所からは「おって呼出しがあるまで宿にいるように。幽学は宿預かりである」と言われた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
長部村(現旭市長部)は、大原幽学が居を定めていた村で、良左衛門は名主の息子。幽学の高弟の一人です。最近では、幽学先生の中では、幸左衛門や五郎兵衛の評価が急落しており、良左衛門の来るのを待っていた状況でした。これで五郎兵衛の状況も良くなると良いのですが。

◯詳訳
本日は非番。早朝に宜平殿が来た。
長部村から良左衛門君たちが昨日江戸に着いたので、奉行所への着届けをどのようにしたら良いかと相談された。
松枝町の借家に行くと、良左衛門君、次郎左衛門殿、米込村の伝蔵、武三郎、節五郎がいた。
・ 昼食後、御奉行所へ向かう。途中公事宿の蓮屋と万徳へ立ち寄る。万徳の主人は留守で、下代は病気のため、腰掛にいた角村屋に頼んで着届の書面を書いてもらった。
幸左衛門殿が来ないので、宜平殿と武三郎が迎えに行ったが、すれ違いとなってしまって、幸左衛門殿は間もなく来たが、宜平殿らは番町まで行ってから帰ってきた。
・遅くなってしまったが、八つ時に訴所に出頭。御奉行所からは「おって呼出しがあるまで宿にいるように。幽学は宿預かりである」と言われた。
・その他手続きをして、松枝町に戻る。
・良左衛門君から国元の話しを聞いた。小生の心得違いの話しをすると、良左衛門「そういうところにこだわってしまっては先に進めないから、今までのことはさっぱりと忘れて、これからは世の中を変えるように思えばよい、幽学先生の言葉に従っていればよい、私が来たのを気にそうしましょう」との話しがあったので、随分と気が楽になった。
・夜には幽学先生から節五郎と共に、これまでの不実な行いと心得違いにつき、厳しく指摘された。この日は、節五郎殿と二人で借家に泊まった。

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#五郎兵衛の日記 はお休みです。
嘉永7年閏7月に30日は存在しません(嘉永7年7月は小の月)
#大原幽学刑事裁判 
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#五郎兵衛の日記 はお休みです。
嘉永7年閏7月に31日は存在しません(旧暦には31日は存在しません)、
#大原幽学刑事裁判

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