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洪水、疫病、米高値 文政12年8月下旬・色川三中「家事志」

2024年09月02日 | 色川三中
洪水、疫病、米高値 文政12年8月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』の現代語訳(一部、大意)。
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文政12年8月21日(1829年)
艮風(北東風)。昨夜から大雨止まず。銭亀川の急に一尺五六寸も増し、もっとも高い水位。
昼過ぎ、塚本亥之吉の妻が避難できず。従業員の助右衛門と茂吉を助けにやった。
その後、風向き変わり、水位約五寸引き、夕方までにさらに二尺余りも引いた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日も大雨。銭亀川の水位が気になります。この川は、土浦の町の近くを流れる川。川の水位は三中だけでなく、町中の関心事でしょう。午前は水位が上昇し、危機的な状況でしたが、午後には水位が減少してきて、当面の危機は回避されました。

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文政12年8月22日(1829年)
本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

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文政12年8月23日(1829年)
・巳の日、金運上昇の吉日。灯明を灯す。昨夜の夢には、たくさんの蛇が出てきた。
・一昨日(21日)の風雨で、潮来や牛堀あたりは、急に水があふれ出して大騒ぎになったとのこと。銭亀川の水位は八合五ほどで、水位が上昇しつつある。
#色川三中 #家事志
(コメント)
現代では蛇を夢に見ても、それを吉例とはなかなか取らないのではと思われますが、巳の日を金運上昇の吉日ととらえている三中にとっては、沢山の蛇がでてくる夢は大歓迎であり、日記にも記すべきことなのでしょう。


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文政12年8月24日(1829年)曇
中城町年寄の金之允(いずみや)及び東崎年寄の太田甚五兵衛の二人は、町役人としてようやく勤めにでてきた。色々言い訳をしていたという。
#色川三中 #家事志
(コメント)
中城町年寄の金之允及び東崎年寄の甚五兵衛は、町役人としてよ勤務がよろしくないと、土浦藩から指摘されていました。本日になってようやく公務に復帰。いろんな言い訳をしており、やはりあまりやる気はないのでしょう。

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文政12年8月25日(1829年)雨
水戸の山之部様(山野辺)が紀州より御帰りとなり、土浦を明日御通行の予定。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「山之部様」は水戸藩の家老山野辺家のこと。
水戸藩の名代として、紀州藩主のお悔やみを述べに行っています(6月21日条)。その時の日記ではが「御登りなられる」とだけあったので、江戸までかなと思っていたのですが、2ヶ月かけて往復していますから、紀州を往復したのですね。

色川三中は「山之部様」としるしているのですが、水戸藩家老の「山野辺」家のことです。文政12年は山野辺 義質(やまのべ よしもと)が家老でした。このときの水戸藩の藩主は徳川 斉脩(とくがわ なりのぶ)でしたが、体調を崩しており、この年の10月には亡くなってしまいます。

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文政12年8月26日(1829年)彼岸中日 晴
山之部様(山野辺)が土浦を御通りになった(本来は昨日のご予定であった)。土浦藩が船を出し、高津から真鍋までは船でお通りになったに。私は引龍もっていて町役人として出勤せず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
山之部様は、水戸から紀州まで行き、水戸に帰る途上です。土浦藩では船まで出していますが、これは当時土浦の町が水害で、水没した箇所があったからと推測されます。交通にも不便をきたしていたでしょうし、災害対応に藩としては人を当てたいでしょうから(行きでは、藩は人足44人、馬12疋を用意しています)。

〈その他の記事〉
・本日検見あり。町役人の栗山氏が勤めてくれた。その後同氏、瘧になったとのこと。
・与兵衛の甥が小白からやってきた。与兵衛はまだ全快とはなっていないとのこと。



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文政12年8月27日(1829年)晴
下宿(しもじゅく)に傷寒患者が出た。町内の人々は夜に不動様にお参り。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦の町で「傷寒」の患者がでたとの記事です。傷寒(しょうかん)は東洋医学の用語で、寒気を訴える感染症の総称。インフルエンザも「傷寒」となります。気候が不順で起こり(マラリア)も流行しており、様々な感染症に罹患しやすくなっているようです。

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文政12年8月28日(1829年)雨
・木原行蔵殿がお出でになった。体調を崩されていたが、全快された。
・一昨日、色川治兵衛から隠居の三回忌ということで強飯をいただいた。当家からは、かんこんを二わを送った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
木原行蔵は土浦藩の武士。三中は町人ですが、木原氏とは様々な交流があり、近いところでは東城寺駒ヶ滝まで行って、 石の上で飲酒したり、漢詩を吟じたりして風流に興じていました(4月19日条)。

〈その他の記事〉
・町役人の仕事が昔より忙しくなっている(⇒末尾付4)
・一昨年、竹中七兵衛が向店へ来た時に、証文を紛失したので印形を取り、新しい証文を作成した。(⇒末尾付5)
・木下の婆様が亡くなった。水没地域だらけで難渋。

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文政12年8月29日(1829年)
・白木屋から江戸で店舗再開との挨拶状届く(江戸大火で被災していた)。
・江戸の穀物相場が異常な高値。米が買えなくなり饑饉となるのではないか。
#色川三中 #家事志
(コメント)
天候不順、相次ぐ水害。現代と似ている状況下、米は不作、江戸では3月に大火があったこともあってか、穀物相場が異常な高値。いわゆる化政文化といわれて文化的には隆盛を極めますが、その裏ではこのような危機的状況が既に始まっています。危機が顕在化する天保期はもうすぐです(文政は13年まで)。
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以上で文政12年8月は終わりです。
(この月は小の月のため、29日が最終日)
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文政12年(1829年)8月は小の月のため、30日は存在しません。)#色川三中 #家事志はお休みです。

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文政12年に8月31日は存在しませんので(旧暦には31日は存在しません)、 #色川三中 #家事志はお休みです。


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付1 8月4日条記載
一老人の話
「昔、江戸で飢饉があった時に、カボチャを煮てきな粉をまぶして売ってたそうだ。それを食べてしばらく飢えをしのいだ人もいたという。
翌年、豊作になり世の中が落ち着いている頃、薬研堀でカボチャをくり抜き、その皮を木魚のように叩いて子供向けのおもちゃとして売っていた人がいた。
役人はその者を捕まえて罪に問うた。そんな厳しい時代もあったのだ。」
この人はその時はまだ若く、そのときは江戸にいたとのことである。

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付2 帰参願い(8月4日条記載)

乍恐以書付奉願上候

恐れながらこの手紙をお送りいたします。
皆治(四十五歳)は、私の従弟です。従前甚だしく不行跡で、身持ちが宜しくなく、度々意見しましたが、一向に改める気配がなかったので、親類一同相談して文政十亥年三月に勘当致し、帳外の手続きを致しました。
皆治は現在常州川内郡江戸崎村の名主である八郎兵衛方におりますが、前非を悔い行跡を改めたので、村に戻りたいと申してきました。名主八郎兵衛からも同様の話しがありました。我々も調べましたが、そのことに相違ありません。
誠に勝手をいって申し訳ありませんが、私の家の人別に再び加えていただき、しかと心底を見定めた上で、甚左衛門や親戚たち一同と立ち帰りのことをお願いさせてもいただこうと思います。万一、皆治のことにつき問題がありましたら、我々が引受け、いささかもご苦労をおかけしないように致しますので、何卒格段の御慈悲をもって、この願いをお聞き届けて下さいますようお願い致します。以上
中城町
親類 利兵衛
組合 庄七
同 権七
文政十二年丑年七月

このように利兵衛及びその組合の者から願いが出て、事実関係を糺したところ間違いないとのことでしたので、町役人一同奥印致します。この要望を受け入れていただけるよう、私どもからもお願い致します。
名主 入江全兵衛
年寄 栗山八兵衛
同 金之允
同 吉右衛門
同 桂助
町御奉行所様

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付3 町役人を退くことについての隣り主人との話し(8月6日条記載)

町役人を辞めたいので、一昨日と昨日、隣主人と話し合った。
三中「父が亡くなって以来、内外大小の雑事が多くて大変であったが、昨年あたりから、ようやく仕事が楽になってきた。
しかし、去年秋の凶作で今年の米穀は近年稀に見ないほどの高値。これまで以上に仕事に精を出さなければ、大勢の人を雇っている身としては難しい状況となると、日頃から心配であった。
そのようなときに、今年の2 月突然に町年寄役を仰せつかった。不肖の身にとっては、大役であり、大事面目は余りあるものであったが、時期的にも仕事がままならない上、病弱であるため、とても御用に十分に応えられるようには思えない。このことは親類にも何度も相談し、事情を説明してきた。
しかしながら、このような役職は自分が求めたものではなく、 御上からの命であり、これを断ることは先祖に対しても不埒となってしまう。
引き受けて何とか務めようと思い、皆で協議した結果、お請けし勤めてきたところである。
ところが、2月下旬には足痛となり、3 月中旬まで休まざるを得なくなった。
さらに5 月 5 日から持病が起こり、勤めに復帰できたのは6 月 15 日になってからだ。
所用で休まなければならないこともしばしばあった。
7 月 17 日から行商に出たが、帰ってきてみれば大水である。これにも対応できなかったし、うちのことも行き届かなかった。
こんな風に中途半端な状態を長く続けているようでは弊害が多きくなってしまう。役を退くことはやむを得ない。親類にも何度も相談してきたし、理解はいただけるであろう。」

隣り主人「お話しはごもっともだが、まだ町役人となってから1年も経っていない。1年間は勤めるのがよいのではないか。」

三中「そうかといって今と同じように勤めるのも、他の役人からは良くないと思われるであろう。他の役人と同じように勤められないのであれば、居心地も良くない。長く勤められそうにはないというのであれば、早く役から退くというのも仕方ない。不行届があれば、多くの人から色々と批判されることもある。退職後に指差しされるような状況は好ましくないので、何事もなく無事に退職できるよう、一刻も早く手続きを済ませたいと考えている。」

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付4 町役人の仕事が昔より忙しくなっていること(8月28日条記載)
・先日、元名主の入江呂右衛門殿(隠居)から、附留帳の要旨の作成を依頼された。先祖が作成したものを参考にして作成し、現名主の入江全兵衛殿へ提出していた。
入江殿から出来上がったので見に来てほしいと依頼されたため、拝見した。
入江殿は「 亡くなった隠居が書いたものは廃棄してしまつまたので、このやうに整えることができて良かった。」
・寛延2年(1749年)以前の記録は見当たらない。同年2月以降、年貢徴収は町年寄が行ってきたが、今年からは名主が担当することになったことかわかる。
・元禄時代に色川家に民事訴訟があったことが記録されていた。この点は後日改めて確認したい。
・それにしても近年は、どうしてこのように町役人の用事が多くなってしまったのだろうか。20年前までは町組小頭が一人だけだったが、それでも暇がたくさんあった。近年は町組小頭は二人になったが、それでも忙しい時間。町名主や町年寄の仕事も以前の10倍に増えている。時代の流れが変わってしまったようだ。

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付5 向かいの店舗との新たな証文(8月28日条記載)

借用申店請証文
一 この七蔵という人物は信用できる者ですので、店をお借りするに当たり保証をするものです。
店賃は1年あたり三両とし、7月に1両2分、12月に1両2分を2度にわたって支払います。
お店が必要になった場合は、いつ申し付けられてもすぐに明け渡します。
明渡しが年の途中となったときは、店賃を割合計算で支払います。
支払いが滞った場合は、請人が立替えて支払います。
一 七蔵は、公儀様の御法度や町並の御作法を必ず守ります。
もし七蔵が悪事を働いた場合は、請人もまた責任を持って対応し、貴殿に御苦労をおかけすることはありません。
店内で拝借した物品などを持ち帰ったり、金銀の借金問題でトラブルが発生したりしても、我々で解決し、貴殿に御苦労をおかけすることはありません。
町並の諸役や水銭の支払いなども、七蔵が責任を持って行います。
一 七蔵は代々真言宗高津村常福寺の檀家であり、寺請状は私達の請人側が保管し、必要に応じていつでも提示いたします。

上記の通り、七蔵の行為には、私達が全面的に責任を負い、貴殿に御迷惑をおかけすること
はありません。
後日のため、この証文を作成しました。
文政十年亥五月
店借り主 七蔵
請人 丸や重兵衛
色川桂助殿


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付6 先祖の残した資料と町役人の退任

今日は雨で少し暇があったので、古い箱を開けて昔の書き物を読み返してみた。先祖の五白翁が書き残した地域に関する資料や町方絵図などは、細部まで丁寧に書かれていてその細やかな心遣いが伝わってきた。
その他にも、今の人々にとって役立つ内容の書き物も多くあった。
これは自分が年寄役を勤めることを知って残しておいてくれたのではないだろうかと思わずにはいられない。
町役人に引き続きいれば、この貴重な資料も活用できるであろう。
しかし、町役人を辞職してしまっては、これらの書き物は再び箱の中で埋もれていくばかりである。
この書き物を用いるか否かは自分自身にかかっているが、人の寿命の短さはどうしようにもならないので、今後は「廃人」と呼ばれても致し方ない。
現在、町方では古来の慣習が失われ、大小様々な問題が以前のように解決することが難しくなっている。古の法を知っている人が一人もいなくなり、古来の秩序が崩れつつある。
今こそ自分が志を立てて努力すれば、古法の1割でも実現させることができれば、大きな功績となるであろう。
しかし、残念ながら私は病弱であり、この役職を全うすることができない。祖先の五白翁からは罪人と言われよう。
先日、川口の隠居(祖父)から教諭の書が送られてきたことでもあるし、今の時代に必要な行動とは何かを考えたい。
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