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五郎兵衛、詰められる 嘉永7年閏7月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年08月15日 | お知らせ
五郎兵衛、詰められる 嘉永7年閏7月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年閏7月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。早朝に雑巾がけ、三ヶ所の床下げ。大きな的を用意するため、3人で準備。幕を日除けに張って、場所を設営。夕方に御床上げ。馬場の片付け。夜番は勇太郎殿が勤めてくれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・嘉永7年は閏月があるため、今月は閏7月をお届けします(旧暦では時々13ヶ月の年があります)。
・五郎兵衛もすっかり武家屋敷での奉公に慣れたようです。今日は本番のみで、夜番は同僚が勤めてくれました。

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嘉永7年閏7月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
もともと非番であったが、昨夜勇太郎殿が夜番を勤めてくれたので、本日は本番を勤めた。
早朝ぞうきんがけ、御床下げ、時触、御弓場拵え。夕方御床上げ、鼠半切を平作と二人で三百枚つき、夕方馬場の取片付け。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・五郎兵衛は本日は本番。本来は非番の日のようですが、同僚の勤務の関係で本番となったようです。
・「鼠半切」とは、ねずみ色の半切(半分に切った紙)。漉き返しの再生紙です。相撲の勝負付けなどを刷るのに用いたそうです。「300枚つき」は原文のままですが、意味はよくわからず。半切300枚の用途も不明です。

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嘉永7年閏7月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。掃除と御床下げ。五味様の為夕方まで薪割り。
夕方牛込横寺町川柳で出火。御役所へ火元の場所を報告し、大部屋へ火元の確認を指示し、火災発生をお触れをした。火元見が帰ってきてから、御役所へも報告。夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
牛込横寺町(現新宿区横寺町)での出火への対応は興味深いです。御役所への火元の場所の報告、大部屋へ火元の確認を指示、火災発生の触れ。このような一連の事件対処はマニュアルのようなものかあって、徹底されていたのでしょう。

〈詳訳〉
・本日は添番。朝は掃除と御床下げ。その後、五味様の為夕方まで薪割り。
・堀田の湯に行った後、御役所の大野様、御次竹田様、池田様、御玄関平山様、田中様の御床上げ。
午後
・夕方、幸左衛門殿は松枝町へ行かれたが、日暮れ迄には戻って来られた。
・勇太郎殿は遊びに出かけてしまい戻らなかったので、夜番も勤める。
・夕方牛込横寺町川柳で出火。御役所へ火元の場所を報告し、大部屋へ火元の確認を指示し、
火災発生をお触れをした。火元見が帰ってきてから、また御役所へ報告した。
・安左衛門様が火災見舞いの使者として派遣された。


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嘉永7年閏7月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝掃除、御床下げ。安達様から頼まれた本町の小西利左衛門という砂糖屋へ行き、そのついでに松枝町の借家に寄る。
幽学先生は私を見ると、お出かけになってしまわれた。
伊兵衛父が心配して話しをしてくれたが…。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
外に用事に出かけたついでに松枝町の借家に顔を出した五郎兵衛ですが、幽学先生は顔を合わせないようにと外出してしまいますし、留守番役の伊兵衛(元名主)からは的確ですが、辛辣なことを言われてしまいますし、散々な目にあっています。しかし、五郎兵衛は全く挫けず、「誠に恥ずかしい。心得違いをしていた」と反省するのでした。

〈詳訳〉
・早朝掃除、御床下げ。安達様から頼まれた本町の小西利左衛門という砂糖屋へ行き、そのついでに松枝町の借家に寄る。
・伊兵衛父に又左衛門殿へ送る手紙を見てもらった。また、長沼村へ手紙を送ってもらうよう頼んだ。
・幽学先生は私を見ると、お出かけになってしまわれた。
・伊兵衛父が心配して話しをしてくれた。
「病気の具合はどうだ。調子は良さそうだが、まだ安心できないぞ。油断すると、また元に戻ってしまう。ナスを食べているそうだが、どのような了簡か。ナスは気が余りなく、養生にはならない。気をつけなくてもよいだろうというような気持ちがあるから、気を緩めがちになるのだ。自分の体といっしょで、自分のだけのものではないのだ。本気で養生しなければという気持ちが大切である。」
・また、月々の収支はどうなっているかとのお尋ねがあったので、雑用帳に書いてあるものを見せて説明した。伊兵衛父は、「これではよろしくない。自分の悪いところを先生に言われても、そうではないだろうと思ってしまっているのだ。自分が間違っているのかどうかは分かりそうなものだ。よく考えることだ。」との話しがあった。誠に恥ずかしい。自分のやっていることをよくよく考えてみると、心得違いをしており、幽学先生の教えとは反対のことをしてしまっている。
・昼には借家を出て、帰り道で温飩を食べた。
屋敷のある番町まで帰り、節五郎殿とも色々話した。その後御弓場を片付け、御床上げをした。


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嘉永7年閏7月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・朝、掃除。御役所五味様の御床下げ等と薪割り。
・昼過ぎに、道友の兵右衛門殿と文平が来る。小生の間違いを指摘された。
・明日暇をもらって、松枝町でとくと話し合うことにしたので、本日は夜番も勤め、深夜まで夜回り。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日は伊兵衛父に様々な指摘をされた五郎兵衛ですが、今日は道友が職場まで来て、またまた問題を指摘されてしまいました。ここまでされても、さらに自己改革に進もうとする五郎兵衛。明日借家に行くため、本番を勤めた後、夜番まで勤めるのでした。

〈詳訳〉
・朝、掃除。御役所五味様の御床下げ。御次飯田元治様、飯田録兵衛様、御玄関田中清治様、平山昇太郎様の御床下げ。薪割り。
・昼過ぎに、兵右衛門殿と文平が来た。
兵右衛門殿の話し。
「これまでの五郎兵衛の言動に幽学先生は困っておられる。国元での評判が悪くならないように、また後世の恥にならないように指導をしたいと思うのだが、五郎兵衛が恨んだり、怒ったりすると思うと、指摘することもできなかったそうだ。ハサミや髪かきを買うことについて相談をされるから、勝手にすると良いといったのだが、そんなら買ってみせるというような相談もなく買うことをするので、幽学先生は誠に困っておられる。
五郎兵衛の言い訳はどうも間違っているようだ。幽学先生のおっしゃることは、十のうち一つしか言わないのだが、五郎兵衛はその一つのとだけを言われて、それに固執してしまうのだよ。」
明日、松枝町の借家へ行ってまた話し合いをすることとし、昼過ぎに兵右衛門らは帰っていかれた。
・御弓場の支度。薪割りの始末等する。その後御弓場を一人で片付け、三ヶ所の御床上げ。
・蔵方から番扶持として下げ343文あり、三人で分ける。
・明日の暇をもらうため、夜番を勤める。深夜まで夜回り。



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嘉永7年閏7月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
添番の者が所用で不在の為、慌ただしく一人で仕事をこなす。昼過ぎに松枝町の借家へ行くが、幽学先生はお留守。伊兵衛父らから、小生が改めるべきことについて色々と話しあり…
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・武家屋敷の奉公は人手不足のようです。シフトが決まっているにもかかわらず、急用等でその者が外出となると、一人で対応しなければなりません。
・五郎兵衛は幽学先生のいる借家に行きましたが、本日も顔を合わせてくれません。どうもうまく噛み合わない、そんな状態が続いています。

〈詳訳〉
・添番の平作殿が早朝に大崎へ行ったため、掃除、火起こし、御床下、時触、土用干しなど慌ただしいながらも、一人でこなす。
・昼過ぎに松枝町の借家へ行くが、幽学先生はお留守。
・兵右衛門殿と文平と伊兵衛父がおり、小生が改めるべきことについて色々話してくれた。
「長部村の良左衛門様のようになってもらいたいのだ。幽学先生から言われたことを一つ一つ丁寧に受け止めてほしい。隠すことは全くない、腹を割って話す気持ちがないといけない」
今後は、自分自身の心に浮かんだことは穢いことばかりであるから、言われたことを一つ一つ守る修行を致しますと申し上げたが、一同は納得してくれない。やむなくそのまま帰るほかなかった。
帰り道、節五郎殿、幸左衛門殿とウドン屋に立ち寄り、夜食を食べた。
・食べながら、先ほどのことを思い出した。
文平からは、養生してちゃんと病気を治すようにと言われて、「ちゃんと慎みますから、大丈夫です」と言ったのだが、伊兵衛父は、「そういうことだけいっても文平は安心できないだろうよ。私も安心できない。お前のやってることはいかにも不養生だ。病状が少し良くなっても油断はできない。この病気は軽く考えてはいけないぞ。油断していると大変なことになる。元のような病気になってしまったのでは、示しがつかず幽学先生の教えも面目が立たないぞ」
・こんな話しをした後に、すぐにウドンを食べてしまった。これでは安心できないというのももっともだ。

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嘉永7年閏7月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。早朝掃除、御役所御泊りの大野様、御次五味様、飯田様、御玄関田中様、平山様の御床上げ。
昼に幸左衛門殿と二人で髮結い。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は御屋敷で本番の仕事。五郎兵衛はこうやって体を動かしているときの方が落ち着いて見えます。借家で幽学先生の補佐役を務めるのは、五郎兵衛には向いていないです。

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嘉永7年閏7月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。早朝掃除、御床下げ、昼まで薪割り。昼に道友の兵右衛門殿と文平の来訪あり。「このままだと二十年来の丹精も水の泡だ」といわれる。小生一人の問題ではない。心を入れ替えることを約束。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は添番。いつもどおり、早朝掃除、御床下げ、昼まで薪割り等していたところへ、道友が職場に来訪。「このままだと二十年来の丹精も水の泡だ」とはかなりキツい言葉です。ここのところ連日この問題に直面している五郎兵衛ですが、小生一人の問題ではなく、心を入れ替えることを約束と、至って謙虚な対応です。


〈詳訳〉
本日は添番。早朝掃除、御床下げ、昼まで薪割り。
昼に兵右衛門殿と文平が屋敷に来で、私の心得違いと心を改めるべきことの話し合いをした。
「このままだと二十年来の丹精も水の泡だ。
長部村や十日市場村等とともに長沼村も、幽学先生の教える永続の法を立て、先生の志を継ぐと決めてこの江戸に出てきたのであろう。それなのに、先生のお言葉をそのまま受け入れることはできないというのでは困る。
五郎兵衛一人の問題ではない。幸左衛門殿や節五郎殿も同類と見られてしまっている。五郎兵衛が改心しないのでは、彼らも先生にご迷惑をかけすることになる。」と繰り返し私に諭された。
小生は「きっと心を入替えます。自分の過ちが分からず、恥の上塗りをしていました。 今までの不誠実な行動を改め、誠実に振る舞います。」と申し上げた。

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嘉永7年閏7月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。早朝から掃除、御床下げ、時触。
昼に牧野筑後守殿から手紙が届き、長谷中部屋御厩へその旨お伝え。明日10日未明にお供と共に牧野筑後守様方に赴かれるとのこと。
夕方に夜具上げ。真夜中に起き、弁当の用意を手伝う。少し寝ようとしたところ、お呼びがあり、そのまま寝ずに仕事を続けた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・殿様が急用で呼ばれ、未明に出立しなければなりません。五郎兵衛は添番を勤めた後に、少し寝て真夜中に起き、皆が弁当を作るのを手伝居ました。弁当作りは時間がかかったようです。また寝ようと思ったのに、用を言いつけられ、寝ずに翌日の仕事となります。
・文中に「牧野筑後守」とありますが、筑後守となった牧野氏はいません。牧野「備後守」であれば、嘉永7年(1854年)4月26日、江戸城桜田門番に任じられた牧野貞長を指すことになります。

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嘉永7年閏7月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝掃除、御床下げ。昼過ぎに道友の宜平殿と幸八郎殿が来られた。国元の話し、我々の改革の話し、幽学先生が困っておられることを話された。
幸左衛門殿から、「五郎兵衛の養生は言行不一致である」との話しあり。誠にそのとおりであるので、恥ずかしながら今後は慎み、死ぬるとも養生して厳に身を慎むと決めた。
夕方御床上げし、夜番を勤めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は未明から殿様がお供を連れて外出されたので、五郎兵衛の仕事はさして多くないようです。道友が来て、五郎兵衛の改革の話し。一緒に働いている幸左衛門からも、「五郎兵衛の養生は言行不一致」と言われてしまいました。五郎兵衛は、死んでも養生すると言っていますが、そういうような言い方が問題では…。


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