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幽学先生はご機嫌斜め 嘉永7年閏7月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年08月26日 | 大原幽学の刑事裁判
幽学先生はご機嫌斜め 嘉永7年閏7月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年閏7月11日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
非番。幸左衛門と松枝町の借家を訪ねる。幽学先生は不在で、やはり会えず。伊兵衛父から幽学先生は「死んでも養生すると決心した者が、ちょっとしたことでも慎むことができないのは偽りにしかならない」と仰られていたとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
非番で休みの時を利用して、借家に顔を出す五郎兵衛たちですが、相変わらず幽学先生はつれない態度。しかし、道友らの結束は固く、江戸滞在組からは離反者はでません。この強固な連帯は不思議です。


〈詳訳〉
・本日は非番。薪を100抱割る。348文貰う。
・昼から幸左衛門殿と2人で松枝町の借家へ行く。節五郎殿、伊兵衛父、宜平殿、幸八郎殿がいた。
体調はどうかと聞かれ、調子は良いですと答えると、「それが良い。その調子を大切にしてほしい」と言われた。
・泉屋へ行って薬7貼を調合してもらい借家に戻る。幽学先生とお会いする予定だったが、お出かけになられてしまって会えず。
・「病気の養生については腹から理解してもらいたい。少しも油断しないでほしい。良いと思えばお前は怠けてしまうからな。引き続き気をつけて養生してほしい」と皆さんが親切に言ってくれた。
・幽学先生からは「死んでも養生すると決心した者が、ちょっとしたことでも慎むことができないのは偽りにしかならない」と仰られていたとのこと。
・幸左衛門殿が「幽学先生はこの家に引き続きお住まいになるよう」とお願いしたところ、「そんなくどい話しをするな。兎にも角にも幽学先生に心を任せ、自分勝手な判断をせず、先生の言う通りにすれば、どうにでもなるのだ。
自分の気持ちが変わって改心し、先生を楽にしてあげることができれば、なんでもないできるのだ。良左衛門君がおっつけ来られれば、事態も好転するだろう。幽学先生が会ってくれるくれないということを考えることはあきらめて、自分を改心することだけを一途に考えることだ」と仰られたので、我々も納得して借家を後にした。

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嘉永7年閏7月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。朝掃除、洗濯。
幸左衛門殿と髪結い。御弓場所の準備。
飯田町の東屋万吉方へ扶持米を運搬。32文貰って、銭湯に行く。帰ってから、御床上げ及び馬場の始末。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は仕事の記事のみ。いつもと変わったところといえば、「飯田町の東屋万吉方へ扶持米を運搬」との記事でしょうか。飯田町は現在の飯田橋二丁目のあたり。飯田町には薬湯があったようで、五郎兵衛もたまに入りにいっています(7月24日条等)。

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嘉永7年閏7月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。朝は掃除と御床下げ。
幸左衛門殿「本番のときは、洗濯はしないほうが良いだろう、頼みごとも多くなるから」
夕方、御弓場の片付け。夜番も勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛本日は本番及び夜番。五郎兵衛日記は、大原幽学の刑事裁判のための日記なのですが、幽学先生とは現在別々に暮らし、会ってもされませんので、幽学先生の動静はわからず、五郎兵衛の仕事日記といった体になってしまっています。

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嘉永7年閏7月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は休み。昼過ぎに松枝町の借家に行くが、やはり幽学先生は不在。伊兵衛父は帰村してしまった。借家にいた宜平殿から、幽学先生の言うことだけを聞くように言われた。小生「心得違いをしておりました。病気の事は泉屋にも相談し、養生致します」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
仕事が休みで、松枝町の借家に顔を出した五郎兵衛ですが、幽学先生はまたまた不在。これまで留守番役だった伊兵衛(元名主)も村に帰ってしまいました。 かわりに宜平から同じようなことを繰り返し指導されています。五郎兵衛はまたもや反省。

〈詳訳〉
本日は非番であり、朝から休み。
昼前に少々網すかり。
昼過ぎに松枝町の借家に行くが、やはり幽学先生は不在。伊兵衛父は帰村のため江戸を立ってしまった。
宜平殿から、「幽学先生は、自分の言う事だけに耳を傾けてほしいと言っているぞ」と言われる。
小生から「これまでいろいろと心得違いをしておりました。病気の事は泉屋にも相談し、薬は止めて養生に力をいれていきたい。そのことを幽学先生に伝えて下さい」と宜平殿に頼んだ。
昼過ぎ飯田町の薬湯へ入り、夕方戻る。

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嘉永7年閏7月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。御殿様は朝方に供を連れて御登城。昼前にはお帰りになられる。
小生は朝掃除、昼からは御弓場の設営、御夜具上げ。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
殿様は午前中に御登城。五郎兵衛は一番下っ端で屋敷に残って仕事です。殿様がお供を連れていくと、その分屋敷の人員が手薄になって五郎兵衛の仕事にも影響が出てくるのですが、今日は特に影響はなかったようです。

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嘉永7年閏7月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。早朝に掃除、御床下げ。昼過ぎから夕方まで具足の手入れ。休んだ後に、夜番を勤める。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日も仕事の記事のみ。本番及び夜番。結構拘束時間は長いのですが、日記をみる限り五郎兵衛が苦にしている様子はありません。

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嘉永7年閏7月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は非番。網すかり。道具を運びだして土用干し。昼からまた網すかり。
幸左衛門殿と髪結いをし、夕方に食事をし、牛込の薬店湯へ、幸左衛門殿、大寺と一緒に行く。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は非番で休み。網すかりや道具の土用干し等、何らかの仕事はしています。五郎兵衛はこうやって体を動かしているときの方が良いようです。なお、「網すかり」とは、網で作った魚籠のことのようですが、それを作ったという意味で五郎兵衛は使っています。

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嘉永7年閏7月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は添番。早朝に掃除。昼より御弓場の設営、御夜具上げ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は本日は添番で、いつもどおり早朝に掃除、昼から御弓場の設営と御夜具上げで特記すべきことはなかったようです。
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嘉永7年閏7月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は本番。朝掃除、御夜具下げ。御弓場の片付け。夜番を勤める。仕事の合間に網すかり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は朝から仕事で夜勤(夜番)もしています。もっとも、夜番の仕事の最中に、「網すかり」の副業もしていますから、それほど忙しいということはないようです。

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嘉永7年閏7月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本日は休み。網すかり。昼過ぎに幸左衛門殿とともに松枝町の借家に行く。幽学先生は外出中。その後、先生はお戻りになられたが、我々に会ってはくれず。早々に借家を辞去せざるを得ず。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の仕事は本日休み。道友かつ職場の同僚の幸左衛門とともに松枝町の借家に行きますが、幽学先生は今日も会ってくれず。幽学先生もここまで意固地にならなくてもよいと思うのですが…。


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