南斗屋のブログ

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蝦夷地測量で伊能忠敬が息子へ宛てた手紙

2022年05月22日 | 伊能忠敬測量日記
【寛政12年5月23日付け、伊能勘解由(忠敬)から伊能三郎右衛門(景敬)宛書簡】

(はじめに)
 この書簡は伊能忠敬が第一次測量で往路箱館(函館)に到着して比較的すぐに、自分の息子(長男)である敬景に送ったものを自由訳しました。現代からみると、とても息子にあてた手紙には見えません。当時家の当主に宛てた手紙は皆こんな感じだったのか、それとも忠敬の性格なのかよぬわかりませんが、とにかく当時の忠敬の心情と生真面目さ(これでも真面目な点は結構カットしています)がよく伝わる手紙です。

【書簡】
 先月23日に江戸で出された書状、本日箱館の旅宿に届き、拝見致しました。益々のご壮健ぶりお目出度く存じます。当方出立の際は千住宿のはるか先までお送りいただき、おそれいりました。
 さて、徒歩での旅程は天気があまり良いとはいえませんでしたが、足止めとなることもなく、朝は比較的遅く出立しても、宿に着くのは七つころ(午後4時)でありました。しかし、5月10日に三厩(青森県外ヶ浜町)に着いてから、東風が毎日吹き、渡海ができません。18日まで風待ちしました。
 19日も風が良いとはいえませんでしたが、これ以上逗留するのも船頭や宿に迷惑かと思い、乗船致しました。目的地は箱館であったのですが、風が良くないため、吉岡(北海道福島町)という箱館よりも松前ち近い村(松前までは三里)に着いてしまい、この日はここで一泊せざるを得ませんでした。
 翌20日、吉岡から箱館まで船で行こうと昼まで風待ちをしたのですが、この日もやはり東風でした。この風は青森、三厩、箱館あたりではヤマセと申しまして、この風が長く続きますと作物にも大きく影響し、土用中にまで吹きますと、その年は凶作になるといわれております。
 そのようなわけで箱館まで22〜23里ほどの陸路を行かざるをえず、箱館には昨日(22日)夕方にようやく到着した次第です。宿泊場所は地蔵町の伊藤幸治郎という御用宿です。 
 ここ箱館に到着するまでには天体観測するよう日夜心に掛けておりましたが、何分にも天気がよくありません。南部や津軽(岩手や青森)では毎日曇天、松前や箱館(北海道)ではヤマセ風が吹き続き、天気の回復を待っていてもすぐに曇ってしまいましたが、同行の者が頑張ってくれまして、7、8箇所は観測できました。それにしても、北へと進むごとに北極星が高くなっていくのは、天体の不思議と感心した次第です。
 箱館の御役所にご挨拶に行き、「蝦夷地の測量に取り掛かります」と申し上げますと、御役所からは、「蝦夷地を百里も測量するというのはかなり難しいぞ。箱館をこの時期に出立するのがそもそも遅い上に、今年の蝦夷地の天候がよろしくない。今年は閏月があったから、南部辺り(岩手)でも9月中旬頃には雪が深くなって通る道が難渋するかもしれぬ。」とのお話しがありました。確かに北の地は寒く、御役所の方は綿入れを着ております。国元(佐原)では袷一つで過ごしていることでしょう。
 このような状況ですので、江戸には9月中旬頃は戻るようにせねばと考えております。
 同行の者ですが、4名は壮健であり、良くやってくれています。しかし、長助はブラものでして(無頼者?)、このまま同行するのは覚束ないのではないかと心配です。
 私のすべきところは測量、これだけです。この点は、出立の際にも申し上げまさたし、箱館まで来ましてもその思いは変わりありません。食事保養を心がけ、健康を保ち、秋の末には目標を達成したいというこの点だけを専一に考えております。
 三郎右衛門様におかれましてもご健康に気をつけて壮健でおられるよう願ってやみません。

追伸 なおなお親族方やご懇意にしている方によろしくお伝えください。お栄(忠敬の内妻)は秋までそちら(佐原)に長逗留させお世話になります。
 
 

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