南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

色川三中「家事志」文政10年5月中旬

2022年05月23日 | 色川三中
色川三中「家事志」文政10年5月中旬

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を自由訳したものです。

1827年5月11日(文政10年)
朝、行商に出立す、安食(茨城県かすみがうら市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は土浦で薬屋をしています。医師は各地にいますので、医師に薬を売るために時々行商に行っています。行商に出ているときは、営業活動に力を注いだため、日記は簡潔になっています(後から一気に書いたのかもしれません)。
本日の出発地と宿泊先。実際は船を使っているのかもしれません。場所の参考として見てください。

土浦市 to 安食の道祖神

土浦市 to 安食の道祖神


1827年5月12日(文政10年)
玉造(茨城県行方市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
12日の記載はこれだけです。20日に行商を終えて帰宅するまでは、こんな感じの日記が続きます。
本日の出発地と宿泊先。実際は船を使っているのかもしれません。場所の参考として見てください。

安食の道祖神 to 玉造

安食の道祖神 to 玉造



薬の行商というと、富山の薬売りのような売薬の置き売りを思い浮かべる方が多いと思いますが、三中の行商のターゲットはは医者でした。

三中が医者と会って売り込みをします。医者方に薬種を置き売りし、その後は店の者が随時巡回して不足分の補充や注文品を届けます。集金(年2回)は三中が行ったようです。
参考:中井信彦『色川三中の研究 伝記編』

1827年5月13日(文政10年)
鉾田(茨城県鉾田市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
父親の残したかなりの債務を返済するためには、債務を長期分割払いにしてもらうだけではダメで、その原資となるキャッシュを生み出さなければなりません。三中の行商は、営業力を高め、キャッシュを生み出す活動だったのです。この行商の出来が色川家の今後の運命を決めることとなるので、三中も自然と力が入ったことでしょう。

本日の出発地と宿泊先。場所の参考として見てください。

玉造 to 鉾田駅(バス)

玉造 to 鉾田駅(バス)



1827年5月14日(文政10年)
梶山(茨城県鉾田市)泊。
#色川三中 #家事志  
(コメント)
三中が医者向けの行商を始めたのは、この年が初めてではなく、2年前ころからのようです。日記が書かれた文政10年5月の行商は、集金とともに営業の強化も目的であったのでしょう。

本日の出発地と宿泊先。場所の参考として見てください。

鉾田駅(バス) to 梶山

鉾田駅(バス) to 梶山


1827年5月15日(文政10年)
居合(茨城県鹿嶋市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の行商による販路拡大は成功し、色川家は復活を遂げることになります。三中の成功は、ターゲットであった医者への競争に勝ったことを示しています。その勝因は三中なりの競争戦略にありました。

本日の出発地と宿泊先。場所の参考として見てください。

梶山 to 居合田園都市センター

梶山 to 居合田園都市センター



1827年5月16日(文政10年)
鹿嶋山中(茨城県鹿嶋市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
【三中の競争戦略】
医者が従来から仕入れている薬種商が売っていた薬とは、別の種類の薬、新商品の薬を販売しました。これにより、従来の薬種商と価格競争をすることなく、利益を確保。

1827年5月17日(文政10年)
入梅。鹿嶋(茨城県鹿嶋市)の藤治右衛門殿を7年ぶりに尋ね、家に泊めていただいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
【三中の競争戦略を支えたもの】上
三中の競争戦略は、従来からの仕入先の薬とバッティングしない新商品の薬を販売するという差別化戦略でした。この差別化戦略を支えたものとして、三中の薬に関する知識(商品)の豊富さが挙げられます。

1827年5月18日(文政10年)
麻生(茨城県行方市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
【三中の競争戦略を支えたもの】下
色川家は父の代に取引のあった薬問屋に負債を抱えていたため、同じ店からの新たな薬の供給は見込めませんでした。そこで、新興の問屋から商品の供給を得ていたようです。仕入れ面でも新たなルートの開拓が必要でした。
 本日の宿泊先周辺。麻生には陣屋がありました。場所の参考として見てください。

麻生陣屋跡 · 〒311-3832 茨城県行方市麻生1147

★★★★☆ · 史跡

麻生陣屋跡 · 〒311-3832 茨城県行方市麻生1147


1827年5月19日(文政10年)
5月12日に引き続き、玉造(茨城県行方市)泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商開始の際の5月12日にも玉造に泊まっていますので、「また玉造泊」と書いています。明日にはいよいよ土浦に帰り、この淡々とした記述も終わりとなります。
本日の出発地と宿泊先。場所の参考として見てください。

麻生陣屋跡 to 行方市立玉造中学校

麻生陣屋跡 to 行方市立玉造中学校



1827年5月20日(文政10年)
昼に高浜彦八を尋ね、夕六つ過ぎ時に帰宅。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商終了。土浦に戻ってきました。帰宅は夕六つ(午後6時)。行商には今月11日に出ているので、10日間の出張。電話すらないこの時代は、出張中の土浦での出来事は帰宅してからしか分かりません。そこで起きた問題を明日からこなしていかなければならない三中でした。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 蝦夷地測量で伊能忠敬が息子... | トップ | 進まぬ法廷編⑤-明治7年鳥海秀... »
最新の画像もっと見る