南斗屋のブログ

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寛政12年7月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年07月18日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年7月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年7月朔日(1日)(1800年)
朝は曇り、四つ頃より晴天、夜曇る。太陽の南中を観測する。中村氏所持の蝦夷地大絵図を一見する。(シヤマニに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は四ツ(午前10時)から日中は晴れで天候もよく、太陽の南中も観測できました。南中観測は緯度計測のためです。シヤマニ(様似)に派遣されていた中村小市郎は蝦夷地大絵図を所持しており、忠敬はこれを見ることの許可を得ています。忠敬の地図作りは、このような先人の業績にも助けられてのものでした。

寛政12年7月2日(1800年)その1
薄曇り、夜も同じ。朝五つ頃シヤマニ出立。海岸は砂に小石が交じり、又は大石を積むに似たる道で行路は難。海岸には高く尖った大岩を上下するところがあり、甚だ危うし。〈難路の記載ですが、長いため略〉
#伊能忠敬 #測量日記

寛政12年7月2日(1800年)その2
海辺や新道を行き、五つ頃ホロイヅミに着。最後の一里は夜になってしまった。終日難所続きで草鞋もことごとく切れ破れてしまった。素足になって甚だ困窮しているところへ、出迎えの提灯に出会った。地獄に仏の心地。〈後略〉
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の日記は測量日記中一番の長さで、本日の行程がいかに難所であったかを示しています。長いため全訳はブログに記載しました。

難路に苦しむ伊能忠敬 寛政12年(1800年)7月2日付の測量日記 - 弁護士TKのブログ

(はじめに)今回紹介するのは、寛政12年(1800年)7月2日付の測量日記です。伊能忠敬は、閏4月19日に江戸を出立。測量しながら北海道に入り、5月2...

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本日の旅程はシヤマニ(様似町)〜ホロイヅミ(幌泉;えりも町)。今の様似会所跡からえりも小学校までは約25キロです。

様似会所跡 to えりも町立えりも小学校

様似会所跡 to えりも町立えりも小学校

寛政12年7月3日(1800年)
朝より正午過ぎまで曇る。その後中晴れ、夜は晴天にて測量。(ホロイヅミに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はホロイヅミ(幌泉)に逗留。天気と夜の測量のみの記事です。昨日の疲れを癒やしたのでしょうか(昨日はこの測量旅行一の難路の記事)。幌泉町は現在えりも町といいますが、これは合併によるものではなく、改称によります(1970年改称)。森進一の「襟裳岬」は1974年のヒットなので、歌の影響というわけではなさそうです。

寛政12年7月4日(1800年)
朝五つ後まで曇天、それより中晴れ、夜曇天、夜半後より雨。朝五つ頃出立。海辺を半里ほど行き、新開山道へ入る。中食をとるところまでは、多少上下はあるけれども、平地とさして変わりはない。
その後は山坂多く難所。サル川等の大川を三つ越えて、谷あいのサルルに七つ半後に着。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は幌泉(えりも町)〜サルル(猿留;えりも町目黒)。グーグルマップでは約27キロ。様似から幌泉に至る道も難所だらけでしたが(7月2日条)、本日も難所でした。この難所は猿留山道として国指定史跡となっています。

えりも町立えりも小学校 to 日高目黒郵便局

えりも町立えりも小学校 to 日高目黒郵便局



《猿留山道(さるる・さんどう)は、寛政十一年(西暦1799年)に江戸幕府の公金で開削された蝦夷地最初の山道(当時の全長は約30キロメートル)の一つである。》
(えりも町ホームページから)。

郷土資料館「ほろいずみ」・水産の館| 国史跡 猿留山道(さるる・さんどう)

郷土資料館「ほろいずみ」・水産の館



寛政12年7月5日(1800年)
朝小雨、五つ半過ぎより少晴れ、九つ頃より七つ前までまた小雨、夜は曇天。(サルルに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
今日はサルルに逗留ということもあり、簡素な記事です(忠敬の日記にありがち)。昨日の旅程ですが、襟裳岬をショートカットしており(グーグルマップ参照)、測量していません。伊能図に記入されている襟裳岬周辺の測量は、忠敬が測量したものではありません。

えりも町立えりも小学校 to 日高目黒郵便局

えりも町立えりも小学校 to 日高目黒郵便局


寛政12年7月6日(1800年)
朝は曇り、午の刻は薄曇り。太陽の南中を観測。六つ半頃まで曇る、五つ前より晴れ。夜、句陳(こぐま座)、奎九(カシオペア座にある星)まで測る。八王子同心の頭、原半左衛門殿の手付三人の衆と同宿。(サルルに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
八王子千人同心の原半左衛門については、6月21日条でも言及されています。原半左衛門は千人頭で、この年(寛政12年)、弟•新助と共に千人同心の子弟を100人を率いて蝦夷地に渡ってきました。


寛政12年7月7日(1800年)
朝から晴れる、午の刻に太陽の南中を観測。午後より曇る。前夜深更まで測量をしたので、本日も(サルルに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日もサルル(猿留)に逗留で同所四泊目。前夜深更まで測量をしたためです。測量、天体観測、データの整理に時間を費やしており、遊んでいる様子が全くありません。忠敬はこの事業に心血を注いでいますし、好きだからここまでやれるのでしょうが、チームメンバーの他の四人は大丈夫でしょうか…と心配になるほどです。

寛政12年7月8日(1800年)
朝四つ頃まで曇る、その後晴天、七つ後より薄曇り、暑気強く夜曇天。朝六つ後出立し、新開山道を行く。ルベシベツという山中で中食。七つ頃ビロウに着。同所の御詰合は支配勘定格三浦善蔵殿及び御小人目附田口久治郎殿である。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はサルル(猿留;えりも町目黒)〜ビロウ(広尾町)。今の日高目黒郵便局から広尾町会所前までは約22キロです。チーム伊能の出立は朝五つ(午前8時)が多いのですが、本日は朝六つ(午前6時)といつもより早い出立。サルルに四泊もしたんだから、朝早くに出るぞ!と言わんばかりの早い出立です。

日高目黒郵便局 to 会所前

日高目黒郵便局 to 会所前



寛政12年7月9日(1800年)
朝曇天、四つ頃より終日雨、夜も同じ。
(ビロウに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はビロウ(広尾町)に逗留。四ツ(午前10時)から終日雨と天気が悪く、天体観測もできず。忠敬の不機嫌さが伝わってくるような日記の短さです。
昨日の日記で「新開山道を行く」とあるのは、幕府が新しく道路整備をした道を通ったということです。馬が通れるように山道を整備していったのです。幕府が東蝦夷地を直轄としたのは、忠敬が蝦夷地を訪れる前年のことですから、文字どおりできたての道だったはずです。

寛政12年7月10日(1800年)
朝に雨止み霧深し。昼後より少晴れ、後々小雨、七つ後より少晴れ。5月17日付の伊能三郎右衛門及び大川治兵衛殿の江戸からの書状が届いた。夜、測量。
(ビロウに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
「伊能三郎右衛門」は伊能忠敬の長男(伊能景敬)のこと。「伊能三郎右衛門」は伊能家の当主の名のりです。それにしても、江戸からの手紙がきっちり蝦夷地まで届くというのは、スゴいことです。そういうシステムがちゃんと出来上がっていたのですね。

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