リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2007年7月~その1

2007年07月16日 | 昔語り(2006~2013)
旅の空は荒れ模様

7月3日。なんともくたびれるハプニング満載の旅から帰って来て2日。昔はバケーションの目的地に向かう飛行機の旅は旅の楽しみの半分といったものだけど、21世紀の空の旅はそんなのんきなことを言っていられない。出だしからして、ロンドン行きの便の出発が30分遅れ、と来た。しかたがないから空港ホテルのバーで特大のマティニで景気をつける。

ハドソン湾からグリーンランド南部の上空を通過して、アイスランドの北をかすめ、スコットランドあたりからイギリス上空に入る9時間の旅。ロンドン上空を旋回したおかげで、バッキンガム宮殿やビッグベンが見え、新名物ロンドンアイも見えて、ちょっと観光した気分。やっとヒースロー空港に降りたら、入国管理が長蛇の列。整理をする係はあいも変わらず無愛想。バッキンガム宮殿の衛兵じゃないんだからちょっとはにっこりしてもいいだろうにと思うけど、そこはヒースロー空港なのだ。

ヒースローエクスプレスでパディントン駅へ。所要時間たった15分で一人15ポンド50ペンス(約4千円)。「往復で買うとお得です」とうるさい。パディントンに着いて見たら、月曜日は週末のグラストンベリー音楽祭から帰る人たちで列車が混み合います、と大きな看板。アイルランドへ行くのにロンドンまで出てこなきゃならない日ではないか。しょうがないから今のうちに座席指定で切符を買っておこうと列に並ぶ。ところが、切符を買おうとしたお兄ちゃんに「もうぜ~んぶ売り切れ」とそっけない返事。順番待ちの私たちは真っ青。窓口で事情を説明して、迂回ルートはないかと聞いてみたら、「心配ない、レディングでバスに乗り換えてヒースローへ直行するのがあるから」と、なんでそんなに青い顔してるのといわんばかりの返事でこっちはぽか~ん。それでも、念のためにいっしょになる友だちの分も合わせて座席指定券を3枚買って、ほっ。改札口の辺りで立ったままベーグルを頬張りながら、3時半頃の便に乗るという友達の姿を探す。トレードマークみたいになっている巨大なスーツケースを持った彼女が現れて、一路目的地のバスへ。

会議が終わって、さあバケーション。バスからヒースローへ戻るのに、友達はさすが準備周到の日本人だ。ちゃんとロンドン経由の座席指定券を買ってあった。じゃあ、エアリンガスの搭乗ロビーで落ち合おうね、と別々の車両に乗る。私たちの切符は何と一等車だった。なあんだ、空きがあるはずだなあ。でも、普通車の友だちのよりもずっと安いではないか。片道だとこんだけ高くつくぞと脅かして往復を買わせたがるし、イギリスの鉄道料金の設定は実に摩訶不思議だ。一等車はテーブルに新聞が置いてあるし、飲み物各種だけでなく、果物やマフィン類までワゴンサービスする。不要になった3つ目の「予約席」は、カレシが大きなスポーツバッグをでんと座らせて利用した。ただし、検札のときは人間の切符だけ見せたけど・・・。

レディングで私が座席にバッグを置き忘れるという危ういハプニングもあったけど、何とかバスに乗り継いでヒースロー空港に到着。エアリンガスのコーク行にチェックインして、腹ごしらえ。搭乗ロビーへで友だちと落ち合ったはいいけれど、機材の問題で出発は1時間ほど遅れるとか。それでも、シャムロックマークの飛行機でコーク到着。寒い。おまけに晴れたと思ったらさあっと雨が降る。これぞ、Welcome to Ireland。

いよいよ帰国の日曜日。コークで始まった私の風邪は本格的な気管支炎模様。予約してあったタクシーを飛ばすこと2時間でシャノン空港へ。200ユーロの出費だけど、キラーニーからの公共輸送の便が悪いのだからしょうがない。チェックインカウンターが閑散としていて変だ思ったら、実はダブリン始発の便だった。残ったユーロを使っちゃおうと免税店をうろついていたら、ゲートが変わったとアナウンス。いたるところに出征途中の米兵がごろごろ転がって眠りをむさぼっている。

飛行機がプッシュバックされて、さて離陸かと思いきや、これがうんともすんとも動かない。別に混み合った空港でもないのになあと思っていたら、「ラダーの油圧異常のランプがついたので修理中です」だと。ああ、またしても遅れ。しばらくして飛行機はほぼ満席の客を乗せたまま空港の端の駐機場に送られてしまった。修理完了→検査待ち→検査終了→検査係のサイン待ち→サインオフ完了→給油車待ち→給油完了→プッシュバック車待ち→エンジンをかけて修理結果の確認(結果次第ではターミナルに戻って降りてもらう)→修理確認→やっとこさ滑走路へ。座席に閉じ込められたまま2時間。トロントでの乗り継ぎ時間は2時間。すでに間に合わない。それでも、飛行中にラダーの異常が起きたら命取りだから、文句はいわないけれど。

トロントまでは7時間だけど、実際には機内に9時間いたことになる。トロント到着は乗り継ぎ便の離陸と入れ替わり。エアカナダのカウンターに行ったら、私たちの搭乗券だけが見つからない。なんのことはない、荷物を預けていなかったために、積み替えが不要だからと無視されてしまったらしい。そこがエアカナダのエアカナダらしいところ。それでも、次の便に乗ることはできたけど、飛行機の中も自分のミニバンの中も同じと思っているらしい若い中国系の家族連れと通路を挟んで隣になってしまった。バンクーバーまでの5時間があれほど長く感じられたことはなかった。ビデオカメラで撮影してYouTubeに載せたいような傍若無人ぶり。子育て失敗も親から子へ世代間連鎖するということなんだろうけど、だけどなあ・・・。

ま、交通機関が旅の楽しみの半分だった時代は遠い昔になってしまったのだろう。カレシはこの次は絶対にビジネスクラスで行くと息巻いているけど、それもいいよねぇと乗り気になってしまうのは、やっぱり旅そのものがしんどくなる年になってきたということだろうか。

超乾燥した機内で気管支炎と副鼻腔炎は一気に悪化。おまけに二度の降下では鼓膜が破れそうなほど痛く、しばらく耳が聞こえなかった。2日経って、カレシも風邪気味。それでも、私の気管支炎はちょっと落ち着いて来たし、熱もなくなった。耳もときどき聞こえが悪くなる程度で回復に向かってはいるようだ。でも、今度は声が出なくなりそうな気配。ひそひそ声しか出ない。あ~あ、やれやれ、もう仕事が並んでいるのに。これって遊びすぎたバチなのかなあ・・・

平常通りとは

7月4日。あ~あ、やっぱり仕事は待ったなしの崖っぷちになってしまった。でも、午前7時なんてとんでもない時間に起き出してしまうので、稼働時間は長めに見える。風邪のせいで時差ぼけに悩まされているヒマがない。だから、1日が長いのはいいんだけど、それでついいつもの極楽とんぼになってしまうから困ったものだ。

カレシも私があげた(と主張する)風邪が速攻で喉頭炎に発展したらしく、声がかすれて小さい。私もヒソヒソ声なもので、何を言うにしても互いに顔を近づけてささやき合うという、実に親密な光景になる。片方だけなら静かでいいとか冗談のひとつも出そうだけど、二人揃ってヒソヒソ声になってしまうと意外にめんどうなことになる。何しろ離れたところから大きな声で話すわけにいかないので、何か言うことがあるたびにいちいちどっちかが相手のところに出向かなければならない。けっこう運動になっていいと思えば、まあそれもそうだけど。

さて今日から平常というはずのきのうはまったくもって奇怪な日だった。二人揃ってコンピュータに向かっていたら、急に停電。(まあ、停電というのは急に起きるものなんだけど・・・)。バックアップの電源があるから、ファイルを閉じて、シャットダウンする。午前中だから夜の停電と違って明るい。おかげで妙に手もちぶさたな気分になって落ち着かない。電力会社は復旧作業チームを出動させたというから、後は待つほかない。カレシは庭に出て行き、私は窓際に陣取って遅ればせながら旅日記を書き出す。停電は1時間ほど続いた。おかげで留守中に伸びた雑草がだいぶきれいになり、旅日記も4日分くらいまで進んだ。

正午という私たちには変則的な時間にランチを食べて、さてさてと仕事の算段をしていると、カレシが一階のトイレの水が濁っているといいに来た。タンクの蓋を開けてみたら泥水みたいなのに、シンクの水は濁っていないのだそうだ。トイレが故障しちゃったんだ。配管屋を呼ばなくちゃ・・・と、いささかパニック気味。ちょっと待て。流れないというのはわかるけど、トイレの水だけが濁るなんてありえないでしょうが。問題のトイレに行って、シンクの栓を開ける。最初はきれいだったのがすぐに泥水になる。キッチンのシンクも同じ。水道局が何かやった疑いが濃厚。隣のパットさんに電話したらやっぱり濁っているそうな。うちのトイレの故障じゃなくて水道の問題というわけ。

夕食のしたく時とあって、大きなボールにオフィスのウォータークーラーの水を取ってきて料理に使った。水の配達は毎月けっこうな出費でもあるけれど、こんなときにあわてずに済むというメリットもある。夕食ができ上がる頃には水もけっこうきれいになっていた。でも、とんだハプニング続きで、仕事は遅れるばかり。まあ、少なくとも今日は今のところ平穏無事な流れ。やっと平常の生活に戻りつつあるということらしい。

ペアルックのピンクアイ

7月6日。さあ、落ち着いて仕事にかかろうと思った水曜日はまたハプニングの日だった。どうも右眼のコンタクトがかすんでいる。もっとも、コンタクトは右は遠方、左は手元というように設定してあるので、家の中で鼻先にあるものを見るときは、右は奥行きをつけるだけで実際にはよく見えていない。

でも片方がかすんでいるのはやっぱりイライラするから、レンズを洗いにバスルームに上がって行った。少し念を入れてレンズを洗って入れなおしたら、ふつうならこれで視界すっきりのはずなのに、オフィスにたどり着かないうちに、あれれ、またまた曇り模様。忙しいのに困ったもんだとぶつぶつ言いながらまたバスルームへ行く。そこで外したレンズを洗いながらふと見た鏡の中の顔。右眼の周りがぷっくり膨れて、目頭に目やにがびっちり。白目は真っ赤になっている。

テレビを見ていたカレシのところへ行って、「目がヘンなの」とあかんべぇをして見せたら、カレシは椅子から飛び上がって、「大変だ、そりゃピンクアイだ、伝染する、オレにくれるな・・・」となんかパニック。ピンクアイというのは何だかなまめかしいような病名だけど、急性カタル性結膜炎、つまりは夏によく子供の間で流行する流行性結膜炎のことだ。伝染力が強いのだとか。すぐにドクターに行かなきゃというけれど、ファミリードクターはもう診察終了に近いし、今でかけたら仕事の締め切りに間に合わなくなる。けれども、お岩さんみたいな目を見たら、どうもそんなのんきなことは言ってられない気もする。

結局のところ、編集者の方にちょっと余裕がありそうだったので、緊急で納期の1日延長を頼んでおいて、一番近くのウォークインクリニックへ行った。やはりピンクアイということで、抗生物質の点眼薬を処方してもらい、となりの薬局に飛び込んだ。夕方のラッシュと待ち時間で3時間近くかかったけど、発注元の方で余裕があるからということで期限延長を認めてもらえて助かった。けれども、なのだ。薬の注意書きにはコンタクトレンズの着用は不可と書いてある。見えなければ仕事にならない。マンガチックに分厚い予備の眼鏡があることはあるけれど、これをかけると世界がウワ~ンとワープして見える。ま、しょうがないけど。

金曜日、やっと終わった仕事を納入して、カレシと揃ってドクターへ。カレシの右眼も真っ赤になっている。風邪だけじゃなくて結膜炎まであげちゃって、「私って気前がいいのよね」といったら、「よすぎる!」ケチよりもいいんじゃないかと思うけど、まあ、そこは何をあげるかによるわけで・・・

火元の私が先に診てもらって、気管支炎ということで抗生物質の処方。ドクターの問診はコンピュータに答を打ち込みながらだ。処方箋もプリントアウトされてくる。まだ痛む耳は少しすれば治るとのことだけど、ときどき鼓膜がカシャカシャと音を立てるのは裏に滲出があるせいらしい。入れ替わりにカレシが診てもらって、目はやはりピンクアイであと軽い気管支炎。まったく同じ抗生物質を処方されて出てきた。帰りに薬局で薬を買ってきて、バスルームのカウンターのそれぞれの側に置いたら、おお、ペアルック。外国のバクテリアだから薬がよく効くかもと、ドクターは言っていたけどなあ・・・

旅は食道楽・・・

7月7日。今回の旅はイギリスのバスに4泊、アイルランドのコークとキラーニーに3泊ずつの、10泊11日の日程。私たちの旅の楽しみのひとつが「おいしいものを食べること」にある。このあたりで、思い出になった食事を回顧して、まとめておくことにしよう。

会議の宿舎は大学の寮。夏休みの間にレンタルで稼くらしく、テレビや湯沸しポットを置いてあるけれど、大学構内のレストランは夏休みで休業中。大学構内のカフェは9時からということで、翌朝の朝食としてミルクやジュース、デーニッシュを仕入れて帰る。何だか苦学生メニューみたいだ。

会議の前夜祭はローマ時代の温泉遺跡での立食会。けっこうしゃれたフィンガーフードがたくさんあった。立食会の前には市長に迎えられてのレセプションで、じゃんじゃんシャンペンを注がれて、本番前にかなり出来あがってしまった。

翌日は会議の晩餐会。ギルドホール、つまり市役所のシャンデリアきらめく宴会場が会場。バフェ形式で、ラムのシチューがけっこういけた他は、やっぱりイギリスの料理はまずいと思ってしまう。でも、結局みんなおしゃべりに忙しいから、きっと何を食べたのか覚えていないだろう。

翌日曜日は友だち共々全日会議をサボることにして、両側に店が並ぶ橋の下のカフェで、イギリスに来て初めてのイギリス式朝食にありついた。う~ん、イギリスのベーコンは塩辛い!夕食はビーフと玉ねぎのコーニシュペースティのテークアウェイ(こっち方がイメージに合うイギリス英語)を買って、宿舎で食べた。昔、コーンウォール地方の鉱夫の妻たちがお弁当に作ったのが始まりだそうだけど、すごくおいしかった。

夕食後はpub crawl、つまりパブのはしごで会議打ち上げの飲み会。初めのうちは飲み過ぎないようにと半パイントだったのが、いつのまにか1パイントになり、みんな長年の友だちのようにうちとけて、わいわいがやがや。私たちは夜中近くに4軒目でストップしたけど、今回はなぜかあまりバプに入らなかったので、いい思い出になった。

6月25日(移動日)。ロンドン行きの列車を待つ間コーヒーを飲みに入ったのが、DASHIという名の店で、ショーケースに寿司が並んでいる。看板に日本語で「出汁」と書いてあった。はあ、たしかに「だし」だけど、ローマ字なら英語のdashに通じてカッコよく聞こえるんだけど、「出汁」はねぇ・・・。

アイルランドに移ったその日の夕食はWAGAMAMAという店。日本語の「わがまま」だ。長いテーブルとベンチが並ぶ、創作?ラーメンが売り物の変てこなジャパニーズレストラン。北米以外で広くフランチャイズ展開しているようで、若い人たちの人気スポットらしい。味噌ラーメンはチキンや野菜満載でおいしかったけど、麺はラーメンではない。隣のおじさんは何とチャーハンを食べていた。

6月27日。やっと落ち着いてB&Bの朝食。アイルランド式朝食はベーコンが薄塩でおいしい。私が好きなブラッドプディング(ブタの血とオートミールのソーセージ)は苦手なカレシの分まで食べた。やっぱり朝はしっかり食べなくちゃ。この日はコーヴ(Cobh)の小さなパブで、ギネスとアイリッシュシチューのランチ。薄味のスープがなんとも言えずおいしかった。

コークに戻ってどこで夕食をしようかとさ迷っていたら、ふと目に入った「寿司」。つられて古い建物の狭い階段を上がって見ると、ヒッピーが出てきそうな、小さなレストラン。火曜日だけが「寿司ナイト」なのだそうだ。いかにもアイリッシュといった赤毛のお兄さんがやっているらしい。注文したのは長崎チャンポン。長崎の大村にいたというお兄さんは、材料がそろわなくてといったけど、実だくさんで、体が温まっておいしかった。キッチンで魚を切って、寿司を握る手つきから見ると、日本で修業したのかもしれない。

6月29日。鉄道で4年ぶりのキラーニーへ。翌朝はキャシーさんが作ってくれる朝食。何だか家に戻って帰ってきたような気楽さを感じる。しばらく見ない間にすっかり発展した町で、フランス料理とイタリア料理を食べた。どれも本格的な作り方と出し方で、キラーニーはダブリンよりも洗練されてきているようにさえ思う。最後の日のイタリア料理店では、まず空気乾燥したビーフのカルパッチオ。イタリア流のビーフの刺身だ。テーブルでオリーブ油をかけて用意してくれたけど、これがすごくおいしかった。カレシはプロシュットととローストした梨に舌鼓。メインはシーフードのスパゲッティ。これも上出来。デザートのパンナコッタは青い炎を上げるソースがかかって、ここまできたら天国。

7月1日。シャノン空港へ向かう私たちのために、キャシーさんが早起きしてスクランブルエッグを作ってくれた。トーストに乗せた熱々でふかふかの卵のおいしかったこと!ジョンさんとキャシーさんと、三度目の再会を約束して、ハグでお別れ。この日、たどり着いた我が家でとりあえず食べたのもスクランブルエッグだった。スクランブルエッグで始まって、散々スクランブルすることがあって、最後にスクランブルエッグで終わった長~い1日。いつか何度も語られそうな旅の思い出・・・

旅日記-イギリス(パディントン発)

7月8日。日曜日。午前9時の起床。風邪で早寝がちだけど、だんだんに起床が遅くなっているのは、時差の調整が進んで標準時間に近づきつつあるということだろう。眠ってばかりいたカレシも調子が出てきたのか、今日はアイスクリームを作っている。一足遅れて日本に帰国した友人からは風邪を引いて咳をしているとメール。あ~あ、やっぱり彼女にまで風邪をあげてしまったんだ。ゴメンね!

仕事はまだ詰まっているほどでもないや、とバケーションの延長気分が抜けない。旅行中に撮った二人分合わせて500枚の写真を見る。うん、けっこうできのいいのもあるぞ。旅行の写真となるとやっぱり風景を撮るのだろうけど、私は目を引かれたものにズームインする傾向がある。もちろん風景も撮るけれど、車や人や電線といった邪魔ものが多かったりするから、上等の絵葉書を買ったほうがいいやということになる。

というわけで、私たちの旅のハイライトをば・・・

なぜか性に合わないヒースロー空港からロンドン市内に入るエクスプレスの終着駅がここパディントン駅。アガサ・クリスティのミステリーのタイトルにもあったっけ、「パディントン発何時何分」というの。10年前のシェフィールド会議で初めて見たときは、すっかり落ちぶれてみすぼらしい駅だったのが、4年前に来た時はしゃれたショッピングモールができ、かって泊まった駅の隣の安宿は華やかなヒルトンホテルになっていて、その変貌振りにびっくり仰天。

旅日記-イギリス(バスの坂道)

さて、最初の目的地、バスはローマ時代の温泉遺跡があるからBath(お風呂)という名前がついたところ。会議があったのはBath Universityだけど、もうひとつ、Bath Spa Universityというのがある。一見してなんだか「バス温泉大学」といった感じで、つい本気かいと突っ込みたくなるネーミングなのだけど、れっきとした大学なのだ。この二つの良く似た名前の大学がダウンタウンを挟んで向かい合った丘の上にあって、Bright Orange Busという名の通りに派手なオレンジ色の連結バスが走っている。大学までの2キロほどの坂道は一本調子に上りで、サンフランシスコの坂道よりもきつい。そんなに急には見えなかったけれど、大学に戻りつく頃には三人ともかなりあごが出ていた。でも、よほどの運動選手でもないと自転車通学はしんどいだろうなあと思うけど、大学の駐車場の隅にはちゃんと自転車置き場があったからすごい。

旅日記-イギリス(ストーンヘンジ)

会議の前日は、早めに到着した参加者のために、午前中にストーンヘンジ見学のバスをチャーターしてくれていた。ときどきいかにもイギリスらしくさあっと通り雨が来るけれど、天気は比較的良好。羊や牛が草を食むのどかな田園風景の中を走っていると、前方に見えて来たのがストーンヘンジ。駐車場は大型バスでいっぱい。入口も人でいっぱい。道路の下を通る地下道を抜けると、草原の中に写真で見慣れた巨石群が立っている。第一印象は、う~ん、思ったよりずっと小さいんだなあ。伝説では魔術師マーリンが巨人の助けを借りて作ったことになっているけど、実際に紀元前3千年という大昔にこれだけの石を切って、円形に並べたり、大きな石をきちんと重ねたりするというのは、大変な作業だったことは確かだろう。今は近くを通っているハイウェイをストーンヘンジの下にもぐらせ、駐車場も少し離れたところに移して、古代の厳粛な雰囲気を再現しようという計画があるとか。

旅日記-イギリス(ローマ時代の温泉郷)

前夜祭があったのはローマ時代の温泉大浴場跡。イギリスで唯一の温泉だそうな。パーティの前に、市が国際会議だと聞いて急遽用意してくれたというレセプションが大浴場であった。ここはPump Roomといい、日中は入場料金を払って見学できるところだけど、たっぷりのシャンペンつきで無料とはうれしいかぎり。権威を象徴するチェーンをかけた市長が入口にいて、参加者一人一人が出身地と名前を名乗って握手。正式なプロトコルに従ったレセプション。私たちの番になって、「カナダ、バンクーバーの○○でございます」といったら、市長さんは「いいところだそうですね。私もいつかアラスカに行って見たいと思っていますと・・・。

思わず、ン?でもまあ、いいか。市長さんが数十人の参加者の間を回って自ら遺跡の説明をしてくれる。温泉はまだ滔々と湧いているそうで、大浴場の上に手をかざしてみたら、ほんとにほわ~んと温かいのだ。一度は埋没した遺跡の上にあった建物の住人が、涼しいはずの地下室が暖くてワインを貯蔵できないと文句を言ったのが発掘のきっかりとなり、ビクトリア朝時代に周囲にテラスが作られて、保養にやって来た紳士淑女の社交の場になっていたとか。今は近くに新しい近代的な大入浴場ができて、市民や観光客が温泉気分に浸っているという。

旅日記-イギリス(めっけもの)

7月9日。バスはいろんな有名人が住んだところで、作家ジェーン・オーステンゆかりの建物も多い。小さな家がその博物館になっていて、テレビドラマ化の衣装などが陳列されている。ギフトショップにはBBCテレビ制作で大ヒットした『Pride and Prejudice』のコリン・ファース演じるMr. Darcyのポートレートがたくさんあった。

日曜日に全日会議をサボって行ったのがMuseum of Bath at Work(働くバス博物館)。ちょっと中心をそれて、おまけにさっぱり目だ立たない建物なもので、見つけるのが大変。日曜日とあってボランティアの老夫婦がカウンターの番をしていた。あまり期待できそうにないような気にさせる古ぼけた展示室の中に入ると、実はこれがすごくおもしろい。配管工の徒弟からたたき上げて炭酸飲料業を起こしたJ.J. Bowlerという人の会社で使っていた雑多な機械や道具が展示されている。そこで遭遇したのが何と昔なつかしいラムネのびん!炭酸レモネードの容器として考案されたという。途中がくびれているのは、抜いたビー玉が落ちてびんの底が割れるのを防ぐためだとか。そうか、レモネード→ラムネ。ナットク。日本人が発明したとばかり思っていたけど、そうじゃなかったんだ。神戸か横浜で紅毛人が飲んでいるのを日本人が目ざとく見つけて、さっそくコピーしたというところだろう。

旅日記-イギリス(バス寺院)

バスの市内をエイヴォン川が流れている。馬蹄形の堰があって、別にリバーボートを通すためのロックもある。この川にかかっている名物がパルトニー橋だ。昔のロンドン橋のように両側に店が並んでいるけど、何しろ橋の上だから奥行きはほんとどない。ショーウィンドウを覗いたら、向こう側に川が見えた。

バスにはまた大きな寺院がある。起源は7世紀頃の尼僧院というから古い。聖堂として完成したとたんにヘンリー八世の命令で鉄やガラスを略奪されて荒れるまま放置さて閉まった。それを再興したのはバスの次世代の市民たちで、ヘンリーの娘エリザベス一世が支援したとか。寺院の前は広場になっていて、片やローマの温泉、反対側はおみやげショップなどが並んでいる。

日曜日はやはり午前中は礼拝などで入れなかったけれど、午後に行ってみたら開放されていた。ステンドグラスがすてきで、フラッシュをオフにして何枚も写真を撮った。こうすると外の光でステンドグラスだけを撮ることができる。壮大なゴシック様式の寺院は何となく心を高揚させる雰囲気がある。東洋の寺社仏閣文化の中で育ったはずなのに、何かほっとする気分になるから不思議。神様がいる天国に向かって高く、もっと高くと伸び上がる気分が好きなのだと思う。やっぱり日曜学校に行った幼稚園時代からの三つ子の魂なのかもしれない。私はお釈迦様よりはキリスト様との方がウマが合っているようだ。

旅日記-アイルランド(コーク)

コークは4年前に南ウェールズのスウォンジーから夜行フェリーで来たところ。コーク港は「港」というより「湾」といったほうがいいほど広く、フェリーのターミナルはリンガスキディというおもしろい名前のところにあった。コークはゲール語でCorcaigh(コルキー)といって、「沼地」を意味するとか。アイルランド第2の都市で、人口約30万ほど。(アイルランド全体の人口は4百万人程度でその3割以上が首都ダブリンに集中しているという。)道路標識はほとんどがゲール語が上、その下に英語のバイリンガルだ。ちなみに、ウェールズでもウェールズ語と英語のバイリンガル標識だった。見慣れてしまうと英語よりもそっちの方がとっさに認識しやすかったりするから不思議な話。

リー川の川中島に当たる中心街ではあちこちで道路工事の砂ぼこりが舞い上がり、コンドミニアム建設のクレーンのアームの下で聖フィンバー聖堂の尖塔が頭をすぼめているように見える。好調なアイルランド経済を象徴しているようだ。川端にモダンなホテルも建っている。いたるところにあるパブにまじって明るくしゃれたワインバーも多い。これも経済発展と共に若い世代が豊かになり、おしゃれになって来たことの印なのだろう。

旅日記-アイルランド(コーヴ)

コーヴ(Cobh)はコーク港に面したうっとりとする絵のような町。4年前にフェリーから見た早朝のコーヴはめちゃくちゃにかわいらしかった。かってはクィーンズタウンと言う名で、19世紀半ばにあったジャガイモの大飢饉のときに、ここから何十万人もの人たちが活路を求めてアメリカへ移民して行った。ニューヨークのエリス島を通過した移民の第1号はコーヴから旅立ったアニー・ムーアという女の子だったそうだ。今では大きなクルーズ船が横付けされる岸壁にアメリカへ向かうアニーと弟たちの銅像が立っている。

コーヴにはまた第1次大戦中に沖でドイツの潜水艦に撃沈された客船ルシタニア号の犠牲者の記念碑がある。処女航海で沈没したあのタイタニック号が最後に寄港したのもこのコーヴだったそうだ。カラフルで小さな町にはいろんな歴史のエピソードがあるのだ。

旅日記-アイルランド(コーヴの坂道)

コーヴは港町らしくいたるところに急な坂道がある。ルシタニア号の記念碑の後側にあるゲートを抜けたところが、今にも顎がこすれそうなこの坂道。色とりどりに塗った家が少しずつずれて並んでいる。それがまたおもちゃの町に迷い込んだようで、見ているだけで楽しい。上りきると家々の頭上に尖塔が聳えている。コーヴの町を見守るように建っている聖コルマン大聖堂だ。建物そのものは100年ほどしか経っていないけれど、中へ入ると通路がケルト結びにアイルランドの象徴シャムロックを配したすてきなモザイク模様になっていた。大聖堂のある丘から、埠頭に横付けされる巨大なクルーズ船が見えた。

旅日記-アイルランド(キンセール)

コークから南へバスで40分ほどのキンセール。コーヴの方から見ると、コーク港の反対側に当たる。長い歴史のある町だけど、風光明媚なリゾートということで、ちょっとすれっからしたようなところもあるにはある。地図を片手に13世紀の教会とデズモンド城を探して歩いた。ところが、道路の名前を示す標識がほとんどない。どこを見回しても何通りなのかまったくわからないから、地図を見ても今いる場所さえわからない。観光地なのにそんなのないよ~と文句のひとつも出てこようというもの。迷子になりながら、くねくね曲がる坂道を上ったり下りたりして、やっと見つけた「お城」は今は建物の合間に埋もれて、何とワイン博物館になっていた。かってのキンセールはフランスから運ばれて来るボルドーワインの陸揚げ港で、お城は税関として使われていたという。高級コニャックの「ヘネシー」はアイルランドのワイン商人の一族がフランスに渡って作ったものだった。

旅日記-アイルランド(キラーニー)

7月10日。キラーニーは200年以上の歴史を持つ観光地で、アイルランド最初の国立公園でもある。ゲール語名のCill Airneは「リンボクの教会」という意味。キルアイルネというのをアイルランド人が発音すると心地良い音楽的な響きになるからすてき。(アイルランドやスコットランドに「Kill」で始まる地名が大いのは、どちらもQ-ケルト語と呼ばれるゴイデリック語群に属するためだ。)観光が最大の産業なせいか、町の中心部は、車道はご多聞にもれず狭いのに、歩道はけっこう幅がある。旅に出て以来、バス、コーヴ、キンセールとあるかないかの歩道を、慣れない方向から来る車を気にしながら歩き回っていたので、ここへ来て何となくほっとした気分にもなる。

4年ぶりのキラーニーの町はその活況にまずびっくり。駅で拾った観光案内冊子にも高級化のトレンドが感じられて、その変貌ぶりがうかがわれる。前はかわいい印象だった「ロスホテル」は後ろにガラス張りのモダンな新館が増築されていた。毎日夕方には大都会を思わせるような交通渋滞が起き、観光客がどっと乗り込んで来る夏になるともうお手上げらしい。ちょうど渋滞にひっかかってしまった観光バスの運転手が「キラーニーでラッシュアワーなんて」とため息をついていた。

旅日記-アイルランド(ロス城)

気温は低めだけど朝から青空が広がった日、午前中にjaunting carという馬車に乗って国立公園の中を回った。緑の中にパカポコと蹄の音が響いて気持がいい。あちこちの大量の枯れた植物がまとめてあったので、大嵐があったのかと思ったら、はびこるシャクナゲを駆除しているとのことだった。満開になる時期は見事だけど、元々は19世紀末に庭園の植栽用にとアメリカから持ち込まれた外来種。キラーニーの土がよほど気に入ったのか、野放図に増殖し、野生化して土着の樹林を脅やかすようになったのだという。

ロス城で馬車を止めてしばし散策。湖畔の古城はロマンチックな趣がある。もっとも、城というよりは城砦に近いもので、有力者の家族が住んだ15世紀の防備つきの家(tower house)だ。アイルランドには全国で「~城」という名で何千ヶ所も残っているという。4年前は車で訪れたので中をじっくりと見学できた。各階がタワーの隅のすごい段差のある螺旋階段で結ばれている。家族は最上階に住んだらしいけど、女子供はどうやってあの階段を上り下りしたのだろうと不思議だ。まあ、領主の奥方ともなれば外出はしなかったのかもしれないけど。大きな暖炉のそばの壁にある穴は、赤ん坊の保育器のようなものだったらしい。冷え冷えとした石造りの住居で赤ちゃんを育てるのは並大抵のことでなかった。大人にとってさえ、暖炉の煙と煤にいぶされる、あまり健康な環境ではなかったのだから。

旅日記-アイルランド(夢の跡)

マクロスハウスはキラーニー国立公園の中のマクロス湖のほとりに立つ19世紀半ばの65室もあるという邸宅だ。広大な庭園や優雅な邸宅の生活を支えた農場も残っている。キラーニーに行幸することになったビクトリア女王一行がお泊りになるという知らせで、邸宅の主ヘンリー・ヒューバートは多額の費用を投じて大改装をした。(お気に召してもらえば、叙爵も期待できるという下心もあったらしい。)火事が怖くて一階でしか眠れないという女王のためにしつらえた寝室は、目を覚ましてベッドから起き上がると、窓の外に湖がきらめいているという、さしずめ超高級ホテルの特別スイートといったところか。女王様は大満足でご機嫌麗しくロンドンへご帰還。ところが、さて朗報はいつと期待をしているうちに女王の夫君アルバート公が急逝。悲しみにくれた女王は公務もおろそかになるありさまで、結局は何の音沙汰もないまま、ヒューバート家の家運は傾いてしまったというから、なんともお騒がせな話だ。

旅日記-アイルランド(ヨーロッパの果て)

ディングル半島はヨーロッパの西の果てだ。色とりどりの町並みが絵になるディングルの町から、半島の先端へとドライブすると、めまぐるしく変わる空模様の下、まさに「さいはての地」の風景が広がる。子供の頃に見なれた「北海道さいはての地」の風景に似ていなくもないから、先史時代に東の方へ迷ってしまった遠い、遠い祖先の遺伝子がなつかしそうな声を上げているような気がしてしまう。晴れていれば風光明媚、そうでなくてもそれなりに不思議な情緒をかきたてる風景なのだ。ダンクィンの村を通過したところで雨が本降りになって来た。ぼうっと霧に包まれて見えるのはヨーロッパの最西端の地点。はるばるヨーロッパの果てまで旅をして来たということか・・・

スレーヘッド・ドライブは、名前のイメージとはほど遠い、狭くてカーブだらけのけっこう怖い道路だ。二台が出会ったらどうするのか心配になるくらい狭いところもある。いたるところで「SLOW」とか「SLOWER」と路面に大書してある。アイルランド語で「GO MAL」と書いてあるときもあるけど、この「GO」が間違っても「行け行け」の意味ではないことは一目瞭然。(スローダウンという意味。)もしも「VERY SLOW」と書いてあったら笑ってはいけない。度肝を抜くようなヘアピンカーブが待っているかもしれないのだ。「車は右」になれている北米のドライバーはつい左に寄り過ぎるから怖い。低い土手の向こうは崖っぷち。はるか下は霧が忍び寄る海岸だったりするから、助手席に乗っている方は「もっと右、右!」と叫び続けることになる。そのくらいストレスたっぷりのルートなんだけど、にわか雨を降らせていた雲が途切れて、石を積んだ低い垣根で区切られた緑の放牧地にひと筋の日光が当たると、いかにも「これこそアイルランド」という風景にうっとり見とれてしまうことになる。

Keep Cool!

7月11日。わっ、急に暑くなった。天気予報は週末まで記録的な猛暑になると騒いでいるけど、ほんとに暑い。裏庭に出るとわっと熱気。我が家の玄関ポーチの気温は午後3時で30度。バンクーバーで最高気温が30度を超えるのはかなり稀だったのが、この数年は増えてきているような気がする。炎天下で水撒きをしているカレシは、気候変動でバンクーバーの気候がカリフォルニアのようになったらオレンジでも植えるさ、といたってのんきだ。

我が家は猛暑でもなぜかあまり暑くならないので、窓を開けることはあまりない。裏庭には池の水が常に滝として流れているし、前庭にはいろんな植物が鬱蒼と茂っているし、家の周りは伸び放題の生垣がある。水と緑がクーラーの役割もしてくれるわけ。ベースメントは半地下だから夏は凉しい方だし、日光が入って暑くなる最上階の寝室でエアコンをかけておけば、冷えた空気が自然に階段を下りてくるので、キッチンも暑くは感じない。1年中あまり温度差のない家なのだ。まあ、週末には雨模様でバンクーバーらしい気温に戻るというから、ここは冷たいマティニでも飲んで、keep coolと行こう。

結膜炎の点眼薬は今日でおしまい。やっとコンタクトレンズに戻れて、気持が晴れやかなになった。何しろ、やっと0.1あるかないかの視力では何をするにも不便だ。生まれつき近視と遠視の上にかなりの乱視があるから、ライトがぼわ~んと散大してしまい、夜なら交通信号と他のライトの区別が全然つかなくなって危険きわまりないことになる。予備に作ってあった眼鏡は度が強すぎてかけて歩き回ることすらできない。すわってモニターを見ている限りではいいけれど、これも視界の縁が湾曲して、しかも虹色がなって見えるから、何だか金魚蜂の中にいるような感じだ。おまけに辞書の細かい活字は判読できないとくるから、もう踏んだり蹴ったり。コンタクトの上に老眼鏡をかけるほうがよっぽど楽ちんというもの。目を大切にしよう。

何度も「この量なら、時間はどれくらいかかって、いくら」と聞いてくるのにさっぱり話が煮詰まらないでいるめんどうくさいクライアント。大量発注のつもりで、ページ単価にして安くさせようという意図が含みがあるから始末が悪い。おいおい、こんなの大量のうちには入らないんだけど。それに、この円安で大幅な賃金カットも同然になっている時に「お安く」なんてご冗談でしょうが。まあそれでも、仲介する人の立場も考えて、(条件の良い仕事を断らないで済むように)時間枠をう~んとたっぷりくれるなら少しだけ安くしましょうと、見積りを出しておいたら、実際には5割も多い原稿を送ってきて、これだけ当初見積りの期間でやるとどのくらいかかるかと聞いて来た。おいおい、疲れる人たちだなあ、まったく。それでもこっちもkeep coolで、「当初期間なら単価アップ。増量に合わせて期間も5割増しなら当初見積りの単価」と返事。さて、なんと言ってくるか楽しみでもあるような・・・

し~らない

7月12日。今日のほうが暑くなるはずだったけど、なぜか少し「涼しい」気味。海からの風があるせいだろう。

Excel形式の仕事にイライラ。効率がひどく悪い。元々ワープロじゃないんだからしょうがないんだけど、テキストファイルに落として処理したものを元のファイルに上書きコピーするという手間をかける。一見してめんどうそうだけど、それでなぜか作業のスピードが上がるから変な話。例のめんどうなところからはまだ返事がない。しめしめ・・・

午前中、強いインド訛りの英語で、「妻の戸籍を翻訳してくれ」との電話。そういえばすぐにやってもらえると思っているような感じ。そういうパーソナルな仕事は扱っておりませんといったら、「じゃ、誰がやるんだ」と何だかムカついたような口ぶり。「戸籍」というからには妻というのは日本人なのだろう。まあ、どこの誰が誰と結婚して移民しようと私の知ったことではないんだけど、仕事が終わって値切って来たり、ひどいのになると高飛車に難癖をつけて払わずに逃げようとするのがいたりして、煮え湯を飲まされた経験からして、この手の仕事だけは最初からお断りなのだ。

午後、今度はサンフランシスコの翻訳会社から電話がかかって来た。法律関係の翻訳者を探しているが、やる気があるかという問い合わせ。「もうひとつエージェンシーを増やす気はありますか」と。商売であればもちろん取引先が増えるのはいいことだ。だけど、うまく行くところもあれば、何かしっくりしないところもある。「男女関係みたいなもんですね」といったら、向こうは「わかる、わかる」と大笑い。う~ん、何となくウマが合いそうな感じだなあ。9月まで待つというから、ふつうはやらないトライアルもOKしてしまった。取引先というのはほんとうに男女の関係みたいなもので、付き合ってみなければわからないところも多いのだ。

夜は明日アラスカへクルーズに出発するトロントの末弟夫婦と食事。ロケに来るハリウッドのスターなどがお忍びで泊まるという小さなブティックホテルのレストランで、私たちのお気に入りだけど、いくら仲の良い兄弟でも割り勘なら高すぎるとNGを出されるから、今回は私たちがホストで、この次に私たちがトロントに行ったときにトロントのグルメレストランに連れて行ってもらう、ということで手を打った。北米人は互いに「いやいや、それでは・・・」なんて、(何を押し付け合っているのかわからないけど)いつまでも堂々巡りをしないから、社交がストレスにならなくて良い。

帰ってきたら、仕事のメールのラッシュ。仕事。酔った勢いで「よっしゃ~」みたいにお気楽にOKしていたら、いつのまにか納期が重複。どうしようったて、知らないよお。どうやら明日からはねじり鉢巻モードだ・・・


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