不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

中村紀伊、鳩山邦夫等ー2016年6月の訃報②

2016年07月16日 23時50分47秒 | 追悼
 6月1日に、元主婦連会長中村紀伊さんが亡くなった。92歳。その時に追悼文を書こうかと思ったんだけど、写真さえネットで見つからない。ウィキペディアにもない。まあ、皆も知らないだろうから、書かなくてもいいかなと思ってしまった。大体「主婦連」(主婦連合会)というものが、まだあって消費者運動を継続していることも知らない人が多いだろう。ある時期まで、「シャモジとかっぽうぎで、物価値上げ反対運動をする団体」として誰でも知っている存在だったんだけど。

 中村紀伊さんの話を一度聞いたことがあるけど、それは女性運動家だった母親の奥むめおに関する講演会である。ホントはその後も個人的に詳しくインタビューしたいと思いつつ、時間だけが経ってしまった。奥むめお(1895~1997)は大正期からの女性運動家で、戦後は参議院議員となり、また主婦連を結成し初代会長となった。第一次大戦後、世界的に民衆運動が盛り上がるが、日本でも日本労働総同盟、日本農民組合、全国などが結成された。そして1920年に新婦人協会が結成されたわけである。結成時に理事となったのが、平塚雷鳥、市川房枝、奥むめおの3人だった。これらの団体は必ず教科書に載っているわけだけど、多くは「平塚、市川ら」によって新婦人協会が結成されたと書いてある。この「ら」が、奥むめおなのである。

 日本の民衆運動は、戦前にはほとんど制度的改正を勝ち取れなかったが、その珍しい例外が新婦人協会の運動で一部修正された「治安警察法第5条」である。女性は政治演説会に参加できないという規定が、運動によって1922年に撤廃されたのである。その時点ではお互いに肌が合わない平塚と市川はともに運動から手を引いていて、治警法改正運動の中心は長男を背負いながら議会工作に奔走した奥むめおだった。その後も雑誌「婦人運動」に拠りながら、一貫して「後衛」の運動を継続した奥むめおの存在をもっと広く世に知らしめたいというのが、僕の昔からの思いなのである。

 中村紀伊さんの「紀伊」という名前は、まさに名のとおり、和歌山県生まれということである。関東大震災後、奥は夫の生地に疎開、そこで生まれたから紀伊と名付けられた。戦後は母とともに主婦連の活動に入り、1991年から95年にかけて会長を務めた。初代が奥、二代目が高田ユリ、三代目が中村紀伊で、主婦連会長が一定の知名度があったのも、この頃までだろう。姓が中村なのは、夫が元NHK解説委員の中村泰治郎だったから。この人もテレビに出ているときは皆が知っている人だったわけだが、今ではネットで検索しても全然出てこない。人はどんどん忘れられていくが、ネット時代以前に亡くなった人は検索不能なのである。なお、長女が現・主婦連事務局長の河村真紀子さん。

 中村紀伊さんの話で長くなってしまったから、あとは簡単に。自民党衆議院議員の鳩山邦夫(1948~2016.6.21、67歳)は、知名度抜群の政治家だった。それは鳩山家に生まれたというよりも、女優、モデルだった17歳の高見エミリーを見初めて婚約した経歴による。田中角栄の押しかけ秘書となり、1976年に無所属で旧東京8区(文京、台東区)から出馬した。父の元大蔵官僚、鳩山威一郎は参議院全国区から当選したので、鳩山家の地盤は邦夫が強引に引き継いだ形となった。今では由紀夫、邦夫兄弟政治家などと言われるが、当時は兄は学者で終わると思われていて、鳩山家4代目は邦夫の方だったのである。この、結婚や出馬の経緯からも判るように、また外見もそうだけど、どうにも強引さが鼻に付く感じがして、僕は70年代のころからどうも好きではない。

 だから、都知事選に出た時も入れなかった。石原があんなに取って勝つと思ってなかったのである。誰も25%を取れず再選挙になるだろうと思っていた。結果的に次点は鳩山邦夫で、石原都政があれほど苛烈なものと判っていたら、鳩山邦夫に票を集中するべきだったかもしれない。だけど、まあ、もしかしたら同じ? 大臣に何度もなったけど、宮沢内閣の文部大臣が初入閣。このとき「業者テスト廃止」を突然打ち出した。その時は高校に転じていたが、こういうことを考えなしに言い出すと必ず「私立有利」に働くと思った。公立中学は生徒の「偏差値」を握っていたから、私立中学、高校と対抗できたから。実際、この後「私立中高一貫校ブーム」が起きてくる。むしろ、それが狙いなのかもしれないが。僕は当時、必ずそうなると鳩山教育行政を批判する投書を朝日に送ったが採用されなかった。他の投書はそれまでに何通も採用されていたのだが。

 2007年の第一次安倍改造内閣で法務大臣に就任、福田内閣でも再任された。福代内閣の法相在任中には、13人の死刑執行を命じた。国会開会中の執行は当時ほとんどなかったけれど、12月、2月、4月、6月と相次いで執行した。執行を「ベルトコンベヤー式にできないか」という発言もあった。宮崎勤は最後の2008年6月に執行されている。僕は死刑廃止論者だから、当然執行そのものに反対だが、こういう風に期日を決めて定期的にどんどん執行するというのは、本来の制度の趣旨からしても乱暴すぎる。最後の麻生内閣の総務相の時も、日本郵政とのいざこざを起こし、事実上更迭された。自民党を出たり入ったりはどうでもいいが、全体として「お騒がせ」体質が目につく政治家だった。
 
 元民社党委員長の米沢隆(6.16没、76歳)は民社が新進党に合流するときの最後の委員長。新進党や民主党で副党首、副代表など務めているが、存在感はなかった。自民が89年に参院過半数を割った後で、PKO法案などは「自公民」体制で成立させている。その時の民社の書記長だったが、小沢一郎、市川雄一(公明党書記長)コンビに比べて誰も覚えてないだろう。

 オセロゲームの考案者、長谷川五郎(6.20没、83歳)という方が亡くなった。大体そういう人が存命だったことも初めて知ったが、1973年に商品化されたという。水戸の人で、水戸で世界大会を開いているという。知らないことは世の中に多い。訃報で初めて知る。

 彫刻家の朝倉響子(5.30没、90歳)は朝倉文夫の娘、朝倉摂の妹だった。元阪神監督、後藤次男(5.30没、92歳、)は、2回の監督も一年で退いているので記憶にない。松原正(6.8没、86歳)は英米文学者だが、福田恒存に師事した保守派論客として知られた。亀井秀雄(6.17没、79歳)は、近代日本文学の研究者だが、北大に勤め、小樽文学館長を務めるなど北海道の文学と関わりが深かった。元宮内庁長官、藤森昭一(6.25没、89歳)は、88年から96年の長官時代に、昭和天皇の死去、今上天皇の即位の礼、皇太子の結婚があった。それはそれはと思うが、なった時から覚悟はしてただろう。

 海外では、ビル・カニングハム(6.25没、87歳)は、ニューヨークタイムズでファッション写真を長く撮っていた写真家。ピーター・シェーファー(6.6没、90歳)は、「アマデウス」を書いた劇作家である。っていうか、まず「エクウス」だよね。それで日本でも有名になった。「アマデウス」は映画化に際し脚色を手掛けてアカデミー賞を受けている。愛すべき「フォロー・ミー」もこの人の戯曲だったとは今回調べて知った。2001年に亡くなっている双子の兄、アントニー・シェーファーは、「スルース探偵」という戯曲で有名。これは映画も面白かった。「ナイル殺人事件」などのクリスティ作品の映画化の脚色も担当している。二人の戯曲、映画を見るとミステリー系が多いけど、実際に二人で合作してミステリーも書いた。ピーター・アントニー「衣装戸棚の女」(創元推理文庫)は翻訳されて評判になった。読んでるけど、ちょっと趣味的すぎるとは思う。
コメント (7)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする