尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「無伴奏」をめぐって

2016年04月25日 21時54分45秒 | 映画 (新作日本映画)
 小池真理子原作、矢崎仁司監督の「無伴奏」が公開されて、もうすぐ上映も終わりに近づいている。こういう「60年代青春映画」はつい見てしまうのだが、まあ、そこそこ面白かった。あまり評判にもなってないようだし、実際そんな傑作とは思わない。でも、当時のムードがうまく再現されていて、懐旧的なムードにひたることができる。「あの頃」は一体なんだったのだろうと思わされる。

 「無伴奏」というのは、仙台に昔あった「バロック喫茶」の名前だという。「バロック喫茶」というのは、つまりはバロック音楽のレコードを掛けている喫茶店。「名曲喫茶」とか「ジャズ喫茶」というのは知ってるけど、バロック音楽に特化しているようだ。二人掛けの席が並んでいて、しゃべる時はヒソヒソ声でささやく。多くの席は一人で来て本を読みながらタバコを吸っている若者である。この喫茶店のセットは、原作者が認める再現度らしい。(名前の由来は当然バッハの「無伴奏チェロ組曲」なんだろう。)

 仙台の女子高生・野間響子(成海璃子)は、親や学校に反抗して高校で「制服廃止委員会」を結成する。冒頭は仲間3人で、教室の前で制服を脱ぎ捨てるシーン。仲間に連れられて、「無伴奏」に行き、いつもパッヘルバルの「カノン」をリクエストする堂本渉(池松壮亮)という青年と知り合う。堂本は有名な和菓子屋の息子だが、家を出て友人の関祐之介(斉藤工)とお寺の離れの茶室で暮らしている。祐之介には高宮エマ(遠藤新菜)という恋人がいる。いつの間にか、渉に惹かれていく響子だったが、渉は謎めいていてなかなか近づけない感じもある。渉の「美しすぎる姉」(松本若菜)、4人で行った海の思い出、うっとうしい父親(光石研)と優しい叔母(藤田朋子)、卒業式粉砕闘争…いろいろな謎を散りばめながら、時間はラストの悲劇に向って流れていく。

 僕は原作を昔読んだと思うけど、すっかり忘れていた。だけど、「ミステリー」的な意味では途中で多分そうなんだろうなあと判る展開。69年、70年という時点では「衝撃的」とも言えるが、今ではそれほど衝撃を受けない。小池真理子は、似たような感じの政治と恋愛を背景とした「傷つく青春」のロマネスクな物語をいくつも書いている。直木賞受賞作の「恋」とか、「欲望」「望みは何と訊かれたら」などの方が重層的な深みのある構造になっている。何と言っても、「無伴奏」は主人公は女子高生なので限界がある。でも、その設定は作家本人の自伝的部分でもあるので、やむを得ないわけである。その「初めて世界を知って、深く傷つく」というところに物語の焦点がある。 

 全編にわたって「カノン」が流されていて、悲劇の予感を高めている。響子はデモにも参加し、文学や思想も語る。難しそうな本も読んでいるが、「資本論は判らない」し、「隠れサガンファン」である。17歳で世界的ベストセラー「悲しみよこんにちは」を書いたフランソワーズ・サガンは、当時の若者の多くが読んでいた。フランスの若い女性作家というだけで、「日本脱出」の象徴だったのである。(サガンの訃報が伝えられた時に、小池真理子は追悼文を書いている。)そんな響子のあり方は、「ムードだけの反体制」と言えるものだけど、ツケは払わされる。その痛みにどの程度共感できるかがカギになるが、僕は不十分な感じがしたし、全体にムード優先のきらいを感じた。

 主人公の響子は、進学校にいて、家も大学進学を当然視している。親は仕事の都合で東京に転勤し、響子は一人でピアノ教師の叔母の家にいる。世界のさまざまな矛盾に反抗するのはいいけど、響子の境遇は恵まれている。その自分の位置を問い直すことはしない。この悲劇の展開を唯一防げたかもしれない響子は、ただ見過ごすだけで、傷を負って町を去る。それが「若い」ということだとは言え、その重さを背負って生きて行かなくてはならないだろう。

 この時代には、当然ながら「携帯電話」がなかった。だから、いざという時は家に電話する。親(またはそれに代わる保護者)が出るのである。だから滅多に掛けられないし、掛けるには勇気がいる。それだけに非常時に使うことが多く、この映画でも電話の呼び出し音は禍々しい予感を見る者に感じさせる。すぐに手が出る父を見れば、反抗したくなる気持ちも判るが、こうした親が昔は普通だったのだと思う。(光石研は「お盆の弟」「恋人たち」など最近よく見かけるが、存在感がある。)

 一方で、なんであの頃は皆がタバコを吸っていたのだろうか。背伸びして吸い始めたまま、依存症になってしまったのだろうか。そのせいで、70年代ころの学生運動、労働運動を経験した「左派」の運動家には今でも喫煙者が多いのではないか。21世紀になって、「市民運動」で喫煙している人はほとんどいなくなったと思うが、昔ながらの「左派」が喫煙しているわけである。見ていても煙い画面が続くが、あれがあの頃の風景だった。学校でも、もちろん禁止ではあるけれど「禁煙指導」なんかなかった。

 反原発集会なんかに、「制服向上委員会」というグループがよく出てくる。昔から不思議なんだけど、なんで「制服廃止委員会」じゃないんだろう。僕も「制服廃止」を言ってたクチで、実現は出来なかったけど、まさか何十年もたって「制服がカワイイ学校に行きたい」という生徒が出てくるとは思わなかった。もっとも自分だって「服装指導」なんかする仕事に就いてしまったわけだけど。まあ、高校生が「世界革命」とか「大学は帝国主義的支配の道具」とか言ってたのは、やっぱり無理があった。だけど、この映画のムードに懐かしいものがあるのは間違いない。

 矢崎監督は1956年生まれで、1952年生まれの小池真理子と「同世代」と書いてある資料があるが、それは違う。最低限「高校紛争」に間に合わなかった世代は「遅れてきた青年」であり、この時代の1、2年は決定的な違いとなる。1952年生まれの村上龍(早生まれ)や小池真理子は、高校で「紛争」を起こせた世代である。だけど、大学紛争には遅い。1949年(早生まれ)の村上春樹、1951年(早生まれ)の高橋源一郎などがその上の世代ということになる。また、住んでた場所や親の階層なども大きいが、とにかくほんのちょっとした年齢差が大きな違いとなる時代だったのである。
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