上野の桜を最初に載せたが、本来は上野と言えば寛永寺である。上野公園と言ってる土地は、江戸時代には「東叡山寛永寺」(とうえいざん・かんえいじ)という巨大寺院だった。(本来は上野公園の2倍近い所領を持っていた。)京都の東北方にある比叡山延暦寺に対応して、江戸城の東北方にある上野の山を「東叡山」とした。そして、そこに3代将軍家光の時に「寛永寺」を建立したわけである。1625年(寛永2年)のことである。初代住職は天海和尚。徳川将軍6人の墓所が寛永寺にある。
ただし、徳川家の正式な菩提寺は、芝の増上寺である。寛永寺はむしろ「政治的な重み」をもつところで、17世紀以後は皇族を住職に戴き、比叡山や日光山をも管轄する天台宗の総本山だった。なんとまあ、江戸時代には天台宗の総本山は比叡山じゃなかった。だけど、多くの人も知る通り、1868年の彰義隊と官軍による「上野戦争」で根本中堂ほか多くの伽藍が焼け落ちて壊滅的打撃を受けたわけである。だから、人によっては寛永寺はそこで終わったかのように思い込んでいる人もいる。
まあ、確かに今は見る影もないとはいえ、今も寛永寺は残っている。上野公園の北の外れの方に根本中堂も再建されている。もっともそれは川越の喜多院から移築されたものである。その移築には露伴の「五重塔」の主人公も関わっていたらしい。ここまで行くと、人の数もグッと少なくなる。「歴史散歩」ムードを味わう花見はこっちの方がいい。(元の根本中堂は噴水公園のあたりだったらしい。)

上の写真を見れば判るように、寺院も桜も立派なのに人が少なくてもったいない。この根本中堂の裏の「書院」は非公開だが、徳川慶喜が戊辰戦争後に謹慎蟄居した場所なのである。境内には、上野戦争碑や「虫塚」、尾形乾山の碑などがある。なかなか見応えがある。

ここへ行くには、上野駅ではなく、JR山手線でひとつ隣の鶯谷駅から行く方がずっと近い。鶯谷は山手線で一番地味な駅で、降りたことがない人も結構多いと思うが、歴史散歩には大事な駅である。南口から歩いていくと、4代将軍家綱の墓所の勅額門がある。その先に5代将軍綱吉の墓所の勅額門。もともとは霊廟があり旧国宝に指定されていたというが空襲で焼失し、残った門などは重要文化財に指定。どちらも近くでは見られない。(前二つが綱吉、後二つが家綱。)

その他、結構寛永寺時代のものは残っているのだが、花見客でにぎわう清水観音堂や五重塔、弁天堂など別に書くことにし、今回は北の方、国立博物館の先の方にあるものにしぼることにする。僕も今回初めて知ったのだが、いつもだと国立博物館の先へ行くときは芸大の方に曲がっていくのだが、反対に駅の方に曲がると「両大師堂」があり、その隣の輪王院に「旧本坊表門」が移築されている。(重要文化財)「両大師堂」というのが結構いい感じで、そこから隣に行くところに「幸田露伴旧宅の門」がある。(下の2枚が両大師堂、最後が露伴宅の門)

「旧本坊表門」は寛永年間のもので、元は国立博物館のところにあったという。博物館の整備に伴い移築されたという。通称「黒門」で、そこから上野の地名を「黒門町」と呼ぶようになった。昭和の名人と言われた落語家、桂文楽(8代目)が「黒門町の師匠」と言われたことは有名。今も公園を降りて少し行くと「黒門小学校」がある。(その真ん前に「うさぎやカフェ」ができた。)

ところで、国立博物館の裏あたりに今も寛永寺の「塔頭」(たっちゅう)がかなり残っているのを今回初めて知った。なかなかムードがある。JR山手線に沿ってずっと北上していくと、「日本鳩レース協会」の建物がある。こんなところにそんな団体があるのか。そのちょっと先に、海老名香葉子さんらが建てた「東京大空襲慰霊碑」がある。その隣に3代将軍家光に殉じた「殉死者の碑」。そこまで行った人は少ないかもしれない。僕も今回調べて知った。公園散歩からすると外れの方になる。
ただし、徳川家の正式な菩提寺は、芝の増上寺である。寛永寺はむしろ「政治的な重み」をもつところで、17世紀以後は皇族を住職に戴き、比叡山や日光山をも管轄する天台宗の総本山だった。なんとまあ、江戸時代には天台宗の総本山は比叡山じゃなかった。だけど、多くの人も知る通り、1868年の彰義隊と官軍による「上野戦争」で根本中堂ほか多くの伽藍が焼け落ちて壊滅的打撃を受けたわけである。だから、人によっては寛永寺はそこで終わったかのように思い込んでいる人もいる。
まあ、確かに今は見る影もないとはいえ、今も寛永寺は残っている。上野公園の北の外れの方に根本中堂も再建されている。もっともそれは川越の喜多院から移築されたものである。その移築には露伴の「五重塔」の主人公も関わっていたらしい。ここまで行くと、人の数もグッと少なくなる。「歴史散歩」ムードを味わう花見はこっちの方がいい。(元の根本中堂は噴水公園のあたりだったらしい。)




上の写真を見れば判るように、寺院も桜も立派なのに人が少なくてもったいない。この根本中堂の裏の「書院」は非公開だが、徳川慶喜が戊辰戦争後に謹慎蟄居した場所なのである。境内には、上野戦争碑や「虫塚」、尾形乾山の碑などがある。なかなか見応えがある。




ここへ行くには、上野駅ではなく、JR山手線でひとつ隣の鶯谷駅から行く方がずっと近い。鶯谷は山手線で一番地味な駅で、降りたことがない人も結構多いと思うが、歴史散歩には大事な駅である。南口から歩いていくと、4代将軍家綱の墓所の勅額門がある。その先に5代将軍綱吉の墓所の勅額門。もともとは霊廟があり旧国宝に指定されていたというが空襲で焼失し、残った門などは重要文化財に指定。どちらも近くでは見られない。(前二つが綱吉、後二つが家綱。)




その他、結構寛永寺時代のものは残っているのだが、花見客でにぎわう清水観音堂や五重塔、弁天堂など別に書くことにし、今回は北の方、国立博物館の先の方にあるものにしぼることにする。僕も今回初めて知ったのだが、いつもだと国立博物館の先へ行くときは芸大の方に曲がっていくのだが、反対に駅の方に曲がると「両大師堂」があり、その隣の輪王院に「旧本坊表門」が移築されている。(重要文化財)「両大師堂」というのが結構いい感じで、そこから隣に行くところに「幸田露伴旧宅の門」がある。(下の2枚が両大師堂、最後が露伴宅の門)



「旧本坊表門」は寛永年間のもので、元は国立博物館のところにあったという。博物館の整備に伴い移築されたという。通称「黒門」で、そこから上野の地名を「黒門町」と呼ぶようになった。昭和の名人と言われた落語家、桂文楽(8代目)が「黒門町の師匠」と言われたことは有名。今も公園を降りて少し行くと「黒門小学校」がある。(その真ん前に「うさぎやカフェ」ができた。)



ところで、国立博物館の裏あたりに今も寛永寺の「塔頭」(たっちゅう)がかなり残っているのを今回初めて知った。なかなかムードがある。JR山手線に沿ってずっと北上していくと、「日本鳩レース協会」の建物がある。こんなところにそんな団体があるのか。そのちょっと先に、海老名香葉子さんらが建てた「東京大空襲慰霊碑」がある。その隣に3代将軍家光に殉じた「殉死者の碑」。そこまで行った人は少ないかもしれない。僕も今回調べて知った。公園散歩からすると外れの方になる。


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