尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

1979、中東現代史の起点-IS問題④

2015年02月20日 23時09分17秒 |  〃  (国際問題)
 現在の中東情勢を考えるためには、どの程度さかのぼって歴史を振り返る必要があるだろうか。よく「イスラム国」はアメリカが開始したイラク戦争のもたらしたものだと説く人がいる。それは正しいのだが、もう少し長い期間の検討も必要だと思う。しかし、イスラム教成立やイスラム帝国までさかのぼるのも大変だし、第一次世界大戦後の終戦処理も問題ではあるが100年近い昔の話である。もう少し最近の時点を挙げるとなると、「1979年」という年こそ、「中東現代史の起点」だということになる。36年前で、今年と同じひつじ年。年頭に書いたように、「ひつじ年は中東大乱の年」なのである。

 それより前の話から始めるが、第二次世界大戦以後の世界は、基本的には「米ソ冷戦」である。アメリカ合衆国とソヴィエト連邦を「盟主」とするイデオロギー対立の時代。「ベルリンの壁」が知られるヨーロッパの東西分断、あるいは「熱戦」になってしまった朝鮮半島やヴェトナムなどの東アジア。冷戦時代の焦点はその地帯だけど、中東一帯も第三の焦点と言える地帯だったのである。この地域に一番権益を持つ列強はイギリスで、その象徴はスエズ運河だった。アラブ諸国の高まる民族主義の波の中、エジプトのナセル大統領は1956年にスエズ運河国有化を宣言。それをきっかけにして英仏イスラエルは軍事行動を起こし第二次中東戦争が起こった。

 この時にアメリカは参戦しなかったが、その前にエジプトがソ連に近づいたため、米英がアスワンダム建設援助をほごにしたことが国有化宣言につながった。こうしてアラブの民族主義的政権はソ連よりが明確になっていったわけである。それはアラブ諸国の「明白な敵」であるイスラエルをアメリカが支援する以上、当然のこととも言える。ソ連崩壊で独立したグルジア(ジョージア)やアルメニア、アゼルバイジャンなどはソ連の構成国だったし、ブルガリアまでの「東欧」がソ連圏だったわけだから、トルコやイランは対ソ連最前線だったし、ペルシャ湾岸の原油が開発されると、経済的にも重要性を増した。そのため、イギリス、トルコ、パキスタン、イラン、イラク王国が、1955年にイラクの首都バグダードでバグダード条約に調印し、中央条約機構(CENTO)が成立したのである。(アメリカはオブザーバー参加。)NATO(北大西洋条約機構)は今もあって知られているだろうが、この「セントー」というのは今や知る人もない。大体、イラク王国と何か。イラクはヨルダンと同じハシム家による王政が敷かれていたのだが、1958年に青年将校がクーデタを起こして王政は廃止されたのである。イラクはCENTOを脱退し、ソ連寄りに変わり、バース党政権が成立する。細かい転変は省略し、焦点の1979年にサダム・フセインが大統領に就任することになる。

 イラク王国崩壊後、CENTOはトルコの首都アンカラに本部を移して存続したが、ほとんど機能しなかった。完全に解体されたのは、1979年である。何故この年かというと、中東最大の親米国だったイラン帝国が、1979年1月に崩壊したからである。いわゆる「イラン・イスラム革命」である。それ以前はイランが親米、中東の盟主エジプトが親ソという構図だったのが、ここで完全にひっくり返る。エジプトはナセル死後に後継となったアンワル・サダトが徐々に米国よりに姿勢を転換させていたが、1978年にアメリカの仲介で「キャンプ・デイヴィッド合意」を結んでイスラエルと和平した。1979年3月にはエジプト・イスラエル平和条約が締結され、正式な外交関係を結んだ。イスラエルとの和平は「イスラム教への裏切り」だと考えるイスラム勢力によって、サダト大統領は1981年に暗殺された。イスラム過激派によるテロがアラブ諸国内の指導者を暗殺する段階に至ったのである。

 イランのイスラム革命は1979年1月に帝政が崩壊し、パリに亡命していたイスラム法学者の最高権威ホメイニが帰国し、いろいろあったが結局、「イスラム共和国」が樹立された。1979年11月には、アメリカ大使館人質事件が発生し、1981年1月まで大使館は占拠された。それ以来、アメリカとイランは国交断絶状態になっている。イランはイスラム教の少数派シーア派を国教としている。アラブ民族はほとんどスンナ派だが、イラク南部から湾岸一帯にかけてはシーア派が大勢力となっている。この地帯に対し、イランは「革命の輸出」政策を進め、それに反発する湾岸の王政国はアメリカの軍事支援を受けるようになっていく。「イスラム法に基づく統治」が現実に成立したことは、スンナ派の過激勢力にも激しい衝撃を与えたと思われる。イラン・イスラム体制の成立という大事件が、1979年以後の中東情勢を規定している。
(ホメイニ師)
 そして最後に、1979年12月24日、ソ連がアフガニスタンに侵攻するという大事件が起こったのである。全く1979年という年は、1月から12月まで中東を揺るがす超大事件が起こり続けた年だった。アフガニスタン情勢は複雑な経緯があり簡単には書けないが、とにかく社会主義的政権が成立していて、その内紛にソ連が軍事介入したのである。そのことに冷戦末期のアメリカは激しく反発した。(例えば、1980年のモスクワ五輪ボイコットを呼びかけた。ソ連軍に対して国内外のイスラム勢力は抵抗を続け、アメリカやパキスタンの支援を受け、1989年にソ連軍が撤退するまで激しい内戦が戦われた。この過程でタリバンやアル・カイダなどの勢力がアフガニスタンに勢力を伸ばすことになる。

 一方、イランと隣国のイラクはもともと国境紛争があったが、イスラム革命がイラク南部のシーア派に及ぶことを危惧したフセイン政権は反イランの姿勢を強めていった。その結果、1980年9月にイラクはイランに侵攻し、イラン・イラク戦争が始まった。この戦争は1988年まで続いた。こうして、1980年代の中東では、(それまでのイスラエルとの戦争ではなく)、アフガニスタンやイラン・イラクで長い戦闘が続けられたのである。この時期には、アメリカとサダム・フセインとオサマ・ビン=ラディン(アフガニスタンのイスラム勢力支援の義勇軍に参加した)は、「同じ陣営」にいたのである。それが崩れて、また中東の構図が一変するのは、1990年のイラクによるクウェート侵攻と1991年のいわゆる湾岸戦争だった。ここでフセインとアル・カイダとアメリカは、それ以後の違う道への分岐路を歩み始めることになる。今回は中東現代史概説なので、次回に「イスラム過激派思想」というのはどういうものなのかということを考えたいと思う。
(サダム・フセイン)
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