尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「マダム・マロリーと魔法のスパイス」

2014年12月03日 22時53分32秒 |  〃  (新作外国映画)
 とても気持ちのいい映画。「マダム・マロリーの魔法のスパイス」は、もうロードショーが終わりに近づいているが、問題作とか傑作というほどではないかもしれないが、昔の映画みたいに「いい映画を見た」感が残る。スティーヴン・スピルバーグ製作、ラッセ・ハルストレム監督。いつもの通り、ハルストレムの映画は感じがいい。景色が美しく、人間関係が面白く、ラブロマンスもある。それ以上に料理が素晴らしく美味しそうで、異文化理解、地産地消をうたいあげるメッセージ性も隠し味。
 
 インドのムンバイでレストランをしていたコックの一家が、暴動で放火されヨーロッパに移る。インド人だから英語は話せるからイギリスに行ったが、寒くて野菜がまずい(これが笑える)ので、1年後に大陸へ。ぼろ車で放浪してる時にブレーキが故障して、ある村に滞在する。そこが気に入って、レストランを開こうとするが、真向いにミシュランで一つ星のフレンチ・レストランが。しかも、そこにオーナーが、ヘレン・ミレンで、レストランに人生を掛け、町長にも訴え、両者は戦闘モード。でも、フレンチで副シェフのマルグリットと、インド青年の料理の天才ハッサンが仲良くなっていき…。

 展開は予想通りなんだけど、とにかくこの町が美しい。フランスでもスペインに近い「ミディ・ピレネー」地方でロケしたという。驚くほど素晴らしい町である。さすがに、向かい合って張り合うレストランという設定どおりの建築はありえないので、両方の建物を見つけた後、インドレストランの向かいにはフレンチの外壁だけセットを立てたという。そこのマーケットの魅力も素晴らしい。インド料理のスパイス、フレンチの芸術品のソース、野菜、肉、魚にくわえ、キノコやウニまで出てきて、日本人にはうれしい。見てるだけで美味しそうで、実に楽しい。地産地消の美味しさを目で味わえる。

 ヘレン・ミレンと言えば、「クイーン」でアカデミー賞。何せエリザベス女王だから、高貴というか尊大というかの役柄はお手の物。でも、「ヘイトスピーチ」「ヘイトクライム」は絶対に許さない。自分の店のシェフが、インドレストランに「フランスはフランス人のもの」と落書きし、放火するという事件が起きると、すぐにクビにして、落書きを雨の中、自分で消し始める。ハッサンの天才ぶりは出来過ぎているけど、その結果両者の和解、すべて幸せなラストに至るから、まあ良しとしようではないか。

 ラッセ・ハルストレムはスウェーデン出身の監督で、「アバ/ザ・ムービー」などを作ったが、1985年に劇映画「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」を作って世界的に認められた。日本でもベストテンに入選している。90年代になるとアメリカに招かれ、「ギルバート・グレイプ」(1993)を作った。ジョニー・デップとレオナルド・ディカプリオの兄弟を描いた傑作で、知恵おくれの少年役だったレオナルド・ディカプリオを発見した映画。その後も「サイダーハウス・ルール」、「ショコラ」、「シッピング・ニュース」など文芸映画の名作を監督した。「HACHI 約束の犬」もこの人で。ちょっと「ハートウォーミングな名作」路線ばかりになって、最近は引き受け過ぎの感じもあるけど、今回の「マダム・マロリーと魔法のスパイス」は久しぶりに会心の作ではないか。これも原作があるというが、料理と景色が目玉だから、映画の方がいいのではないかなあ、きっと。スパイス嫌いだとダメかもしれないが、夫婦やカップルで見たい映画。
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菅原文太も亡くなったのか-追悼・菅原文太

2014年12月02日 23時52分04秒 |  〃  (旧作日本映画)
 菅原文太(1933~2014)が亡くなったと夕刊紙の大きな見出しで昨日知った。11月28日没、81歳。つい先ごろ、高倉健が亡くなったばかりではないか、と誰もが思う。菅原文太は前に病気も公表していたし、俳優はほぼ引退状態にあったが、その社会的活動、発言などは今の日本に必要な人だった。存在自体が「ある世代」を代表するような人物だったと思う。文化勲章などには縁遠く、国家から顕彰されなかったからこそ、民衆が記憶し続けていきたい。全く惜しいし、悲しい訃報である。
   
 菅原文太と言えば、まず「仁義なき戦い」(1973)である。この作品で73年のキネマ旬報男優賞を受けた。1973年1月13日に公開され、面白いと評判になり大ヒットした。その評判は聞いていたが、高倉健の時に書いたように東映の映画館は高校生には敷居が高く、多分僕はその後に銀座並木座で見たと思う。第1作がつまらないわけではないが、特に第3作の「仁義なき戦い 代理戦争」、第4作の「仁義なき戦い 頂上作戦」の群像ドラマとしての完成度には驚いた。

 菅原文太が印象に残るのは間違いないが、同じぐらい金子信雄、加藤武、小林旭などが印象に残った。その後、2回ほど連続で見ているが、やはり抜群に面白い。と同時に、監督の深作欣二、脚本の笠原和夫、主演の菅原文太それぞれにある、「戦後へのこだわり」が心に残った。深作は1930年、笠原は1927年に生まれている。この生年の違いは、当時としては大きいが、いずれも実際の戦争に参加する前に戦争が終わり、国家に裏切られた世代である。

 1972年に藤純子が結婚して引退、記念映画としてマキノ雅弘の最後の作品「関東緋桜一家」が作られた。これが任侠映画の終わりを象徴した。1973年に「仁義なき戦い」がヒットして、東映は高倉健の時代から、菅原文太の実録映画時代となる。この転変は、後の時代から見ると、連合赤軍事件(1972)が起きて「60年代」が完全に終結し、73年にはベトナム和平協定が結ばれて米軍がベトナムを引き揚げ、日本でもべ平連が解散した。「仁義なき戦い」とその後の実録路線、そして「トラック野郎」シリーズの大ヒットのことはいろいろな人が語ると思うから、ここでは違うことを書いておきたい。

 菅原文太は早大中退だが、在学中から演劇、映画など活動している。劇団四季の一期生でもある。しかし、一番大きな仕事は「男性モデル」だった。日本初の男性専門のモデルクラブを創設したのである。その時の仲間に岡田真澄がいる。そこから新東宝にスカウトされる。新東宝は東宝争議の時に分裂して生まれた会社だが、経営が苦しくなって、次第にトンデモ映画の宝庫のような会社になっていった。今では普通に名作とされる中川信夫「東海道四谷怪談」などもあるが、今見ても凄く変な映画も数多い。主演第一作だと思う「海女の化物屋敷」(1959)も多分そんな映画だろう。
(「海女の化物屋敷」)
 僕が見ているのは、助演している「女王蜂の怒り」だけだと思う。「ハンサムタワーズ」などと言われていたが、まあブレークする前に会社がつぶれてしまった(1961年)。そこで松竹に移籍したが、女性映画の松竹では助演ばかり。僕の印象にあるのは、坂本九のヒット曲「見上げてごらん夜の星を」の映画化。定時制高校生の青春を描いたミュージカルだが、そのクラスの担任が菅原文太だった。木下恵介監督の名作などにも出ているが、やはり助演しか回ってこないから、結局1967年に東映に移った。

 東映に移っても長い間、鳴かず飛ばずでヒットには恵まれなかった。長い下積みを経て、やっと自分のキャラクターを生かせるスタッフと題材にめぐり合ったのである。しかし、それにも前史がある。いわゆる「任侠映画」にはほとんど出ていないが、例外として緋牡丹博徒シリーズには時たま出ていて、特に「緋牡丹博徒 お竜参上」で今戸橋で純子が文太にミカンを渡す雪のシーンは、屈指の名場面として見たものの心に刻まれている。今、「任侠映画」と書いたのは、明治から昭和初期を舞台にし高倉健や鶴田浩二が着流しで出てくる映画のことである。
(「緋牡丹博徒 お竜参上」)
 ずいぶん様々なシリーズが作られたが、そればかりでは番組は埋まらない。だから現代ヤクザの映画もかなり作られている。菅原文太は主にそういう映画に出ていた。「現代やくざ」とか「まむしの兄弟」などのシリーズである。そして、同じように長いキャリアがありながらヒットに縁遠かった深作欣二監督の作品によく出るようになる。特に1972年の「現代やくざ 人斬り与太」「人斬り与太 狂犬三兄弟」が評価されたが、これらのテイストは「仁義なき戦い」とほぼ同じと言っていいだろう。

 「トラック野郎」シリーズは、後になって数本見ているが、同時代的には見たことがない。最近になって面白いと再評価の声が高いが、今年監督の鈴木則文も亡くなってしまった。確かに面白いし、菅原文太の意気込みはものすごいんだけど、数本見ると飽きてしまう。1977年に寺山修司が東映に招かれて撮った「ボクサー」は、老いた元ボクサーが新人を鍛えるボクシング映画の定番だけど、その無国籍的なムードが寺山映画そのもので良かった。「太陽を盗んだ男」や「ダイナマイトどんどん」にも出ているが、80年代以後は日本映画界の衰退もあり、あまり作品に恵まれていない。
(「トラック野郎 御意見無用」)
 むしろ、テレビの印象が強く、大河ドラマの「獅子の時代」(1980)や「徳川慶喜」などが思い出される。特に「獅子の時代」は明治期の庶民を描いた異色の大河ドラマで、菅原は会津藩の下級武士がたどる苦難の人生を演じた。僕は見てないのだが、講談社現代新書「新しい左翼入門」で、著者の松尾匡が熱く熱く論じている。最後は「声優時代」で「千と千尋の神隠し」「ゲド戦記」「おおかみこどもの雨と雪」などに出ているから、若い世代にはむしろ声優として認識されているかもしれない。

 俳優としては珍しく社会的発言をした人だが、僕の知る限り一番最初は1974年参議院選挙の東京地方区に出た作家野坂昭如の応援演説ではないだろうか。その時の演説を収めた「辻説法」というレコードを持っている。そこには小沢昭一の応援は収められているが、菅原文太はない。でも僕は確かにこの耳で聞いたように思うのである。残念ながらまだ有権者じゃなかった年齢なんだけど、聞きに行ったように思う。そこでは「自分のようなやくざばっかりやってる役者が応援していいのかと思いますが…」とか言っていた。聴衆から「いいよ」と声援が贈られていた。

 近年は有機農業に力を入れ、ほとんど「農民」だった。特に「3・11」以後は原発反対集団的自衛権容認反対など、様々な活動に参加していた。11月1日には、沖縄で知事選の翁長元知事の応援に行っていたから、病の中での「本気度」がうかがわれる。その心中にあるものは、仙台一高で一期下の井上ひさしと共振するものがあったと思う。「農」への思い、「戦争反対」への思いである。井上ひさしや小沢昭一を通して、僕は戦争がいかに悲惨であり、強いものにではなく弱い者に厳しくのしかかってくるかを学んだ。歴史を専攻したんだから当時の様々な史料を読んでいるし、映画ファンとして多くの戦争映画からも学んだ。と同時に、ラジオ、テレビ、雑誌、映画などの大衆的な娯楽メディアを通して伝わってきた「深い思い」は大きい。「戦争を経験した世代の思いを聞いた世代」として、それを伝えてつないでいく責任がある。そういう意味で、菅原文太の思いを伝えていかないといけない。
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女優・桑野みゆきをめぐって

2014年12月02日 00時44分36秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで、「伝説の女優 桑野通子と桑野みゆき」という特集をやっている。桑野通子(1915~1946)は、戦前に松竹の女優として活躍した。小津安二郎の傑作コメディ「淑女は何を忘れたか」を若い時に見て以来、印象に残っている。桑野みゆき(1942~)は、戦後の松竹で活躍した女優で、大島渚監督の「青春残酷物語」のヒロインとして鮮烈な印象を残した。だから、僕はこの二人の女優を何十年も前から知っているし、二人が親子だということも映画史的知識として前から知っていた。しかし、今まで桑野みゆきを意識したことはほとんどなかったのである。
 
 最近再評価の声が高い中村登監督「夜の片鱗」(1964)を最近初めて見て、堕ちていく女の哀しみを全身で表現する桑野みゆきを再発見した。年齢を計算すると22歳である。いくら老けメイクをしたといっても、もう何年も体を売って男に尽くしてきた荒みきった女を演じているのである。そして、その通りにしか見えない。このスタイリッシュな名作が、どうして忘れれていたのか。中村監督にとっても、桑野みゆきにとっても、何とも残念なことだった。それから、僕にとって桑野みゆきがとても気になっているのだが、ちょうどいい機会に親子の特集上映が企画された。
 
 桑野みゆきは、1967年に結婚を機に引退して以来、「家庭の人」になっている。昔の映画を見ていない人は名前も知らないだろう。小津監督の「彼岸花」「秋日和」に(あまり大きな役ではないが)出ているし、黒澤明「赤ひげ」にも出ている。大島渚「日本の夜と霧」では若い左翼活動家で、安保闘争のデモで怪我して入院中に前世代の渡辺文雄と結ばれる役を演じている。他にも山田洋次「馬鹿まるだし」豊田四郎「甘い汁」などの名作に出演している。小津、黒澤、大島、山田の4監督の作品に出演経験のある俳優は、多分他にいないのではないか。このような「名作」は僕は昔から見てたけど、映画の面白さやテーマ性に目が向き、女優桑野みゆきが印象に残ることが少なかった。
(「日本の夜と霧」)
 桑野みゆきは松竹の人気スターとして100本以上の映画に出ている。その大部分は松竹の女性映画で、今はあまり上映機会がない。でも、そういう映画を見ないと、女優のイメージをつかむことはできない。今日見た井上和男監督「ハイ・ティーン」(1959)は、まさに17歳の桑野みゆきが高校3年生を演じていた。冒頭、学校をさぼって朝のプールに忍び込んで、勝手に泳いでいる。水着姿であるのはもちろん、飛び込み台から飛び込んで本人が泳いでいる。もう、ここで当時としてはずいぶん「進んだ高校生」である。ラグビーの強い私立高校に通っているらしいが、どうも大変な学校である。佐田啓二の世界史教師(寺崎先生)が採用されて、担任になる。校長(東野英治郎)は「悪い生徒というものはいない。いるのは扱いが難しい生徒だけだ」というが、その扱いの難しさは結構とんでもないレベル。
(「ハイティーン」)
 桑野みゆきは甘ったれで遅刻早退が多い。「問題児」とレッテルを貼られている。彼女は先生に憧れて…という展開は娯楽映画の定番なので後は書かない。興味深いのは、生徒の投票で決まる社会科見学の行先。なんと「東海村の原子力発電所」である。一番最初にクラスに行ったとき、勝手に騒ぐ生徒に対し、佐田は世界史の年号を書く。「マグナカルタ、名誉革命、アメリカ独立、フランス革命、十月革命」である。こうして人類は自由を獲得してきたという教師が、原発に生徒を連れてって「原子力の平和利用は人類の希望」みたいな説明をする。「進歩的」な人ほど、そのように思っていた時代なのである。この映画の桑野みゆきは、あからさまに教師にまとわりつき、若くてかわいいからと言っても、これでは大人の教師から見ると「恋愛の対象」にはなれない。

 吉田喜重「日本脱出」(1964)は、見てないと思ったら前に見ていた。吉田喜重特集で見ると印象が弱いが、桑野みゆき特集で見ると傑作犯罪映画。成島東一郎撮影、武満徹音楽の素晴らしさも印象的だ。新宿の「トルコ風呂」で働く桑野みゆきが、待田京介にダマされトルコ風呂の金を奪う犯罪に協力する。男の弟分、鈴木やすしと逃げていく女の哀感がすごい。若いのに、どうしてこのような風俗嬢の堕落と倦怠を演じられるのか。「東京五輪直前」という設定も興味深い。聖火リレーのシーンまで出てくる。それを同時中継するラジオ車に、鈴木やすしが逃げ込んで、ラジオで放送されるシーンがある。鈴木やすしのアパートの隣人、娼婦の市原悦子は「東京五輪では、私も民間外交で稼がなくちゃ」などと言って、外国人客相手に儲ける気満々。そういう「東京の光と影」を描き出した名作。

 五社英雄監督特集の「三匹の侍」では代官の娘で、農民にさらわれる。「五匹の紳士」では夫と子どもを仲代達矢に轢き殺された未亡人で、後にキャバレーで働く。このような役柄が若いのにうまい。もっと普通の娘役もある。野村芳太郎監督「恋の画集」では、恋人に結婚を迫る女の役で、普通にカワイイ。今回の上映にはないが、篠田正浩「三味線とオートバイ」の桑野みゆきも非常に魅力的。「夜の片鱗」「青春残酷物語」などは是非どこかで多くの人に見て欲しい映画だ。

 今回の特集では、桑野通子の珍しい映画が上映されるのも特徴。特に清水宏監督が多い。「有りがたうさん」「恋も忘れて」など見ている映画もあるが、「家庭日記」や無声映画の「東京の英雄」「金環蝕」などもある。遺作となったのは、溝口健二「女性の勝利」(1946)で、女性解放を訴える戦後の民主化映画。その後、急死するがウィキペディアでは「子宮外妊娠」と出ている。わずか31歳だった。
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命令の奴隷になるなー映画「シャトーブリアンからの手紙」

2014年12月01日 00時32分45秒 |  〃  (新作外国映画)
 「シャトーブリアンから手紙」という映画を上映している。(東京では、渋谷のシアター・イメージフォーラムで12日まで。)この映画は、第二次世界大戦中のドイツ占領下のフランスで起きた「捕虜収容所での虐殺」を扱った映画である。監督は、日本で13年ぶりの新作公開となる、ドイツの巨匠フォルカー・シュレンドルフ。こういう「社会派」の歴史映画は、歴史教師だった商売柄できるだけ見逃さないようにしてきた。今回もそういう「現代史」に材を取った映画だからということもあるが、特にドイツ人監督がフランスでナチスの蛮行を映画にしたという経緯が非常に心に響いた。日本人の映画監督が、中国で三光作戦を映画化するようなことが、現在の東アジアで可能だろうか。
 
 この映画は、時間が91分と最近の映画には珍しく短い。これだけ複雑な出来事を映画化すると、細かく説明したり、感傷的なシーンを加えたりしたくなるものだが、気持ちいいぐらいサクサク進む。「ある出来事」をめぐり、様々な人間がどのように対応したか、簡潔に描写されていく。だからと言って、説明不足や描写不足はなく、非常に多くのことを考え、心を強く揺さぶられる。一言で言えば「巨匠の技」である。さすがにシュレンドルフ、健在なりと感銘深く見た。

 監督の話は後でするとして、映画の内容を先に。シャトーブリアンと言うと、歴史ではフランス革命からナポレオン、ウィーン体制の時代に活躍したロマン派の作家、政治家の名前を僕は思い出す。ただ、その名を検索すると、「シャトーブリアン・ステーキ」がいっぱい出てくるが、その名の由来となった人である。でも、プログラムを読んで知ったのだけど、元々は地名で、シャトーブリアンという人もそこの伯爵家だった。場所はフランスの西北部に突き出たブルターニュ半島の南端、ナントの近くにある。フランスを占領したドイツは、そこに政治犯収容所を作った。フランスの南半部は「ヴィシー政権」が出来て、ドイツに協力したが、北半部はドイツ軍による占領地帯である。

 さて、1941年10月20日、地下の共産党活動家が、ナント地区ドイツ軍司令官を暗殺した。ヒトラーは激怒し、ドイツ人の血に対して、フランス人150人の処刑を要求した。パリのドイツ軍司令部は命令を実行すれば、フランスの人心が離反することを恐れるが、とりあえずまず50人、犯人が見つからなければ次の日に50人、と「分割繰り延べ」にすることぐらいしかできない。そこで、ドイツ軍政の下で行政を行っていたフランス人官僚に、処刑政治犯リスト作りが命じられる。副知事はいったんは拒否するが、「良いフランス人を犠牲にしていいのか」と迫られ、結局はリスト作りを受け入れる。その間、収容所内のようすも描かれるが、そこは「共産党関係者収容棟」で、中には親が共産党員で、駅でビラをまいて捕まった17歳のギィもいる。ギィは隣の女性収容所のオデットに恋をし、年長者はラジオで情勢をつかもうとしている。

 10月22日、リストが承認され、処刑の日となる。副知事はリストに17歳のギィや、その日釈放予定のクロードなどが入っていることに気づき、これは恐るべき間違いで修正すべきだとドイツ軍に迫るが、「では代わりを選べ」と言われて黙るしかない。「すでに決まったことだ」とことは進んでしまい、収容所では昼食が中止にさせられ、リストにある名前が呼ばれ始める。最後にモヨンという神父も呼ばれるが、彼は副知事に「何で加担しているのか」と問い詰めると、副知事は「公務員の義務」と言う。話をやめろと言うドイツ人軍人にも「命令の奴隷になるな。良心の声を聞きなさい」というのだった。神父は「あなたたちと考えは違うが、最後の手紙を預かろう」と呼びかける。ギィも家族にあてた手紙を書く…。

 以後は書かないが、ドイツ軍人の中にもさまざまな人がいたことも示される。処刑の「予行練習」も行って、処刑準備を進めるが、私には出来そうもないと申し出る兵士もいる。(後のノーベル賞作家、ハインリヒ・ベルがモデルだという。)実際の暗殺犯も描かれ、ドイツ軍上層部のようすも描写される。このように重層的に「ひとつの事件」を描くのだが、処刑する側、処刑される側を問わず、「決定的な時期に、どのように対処したか」を的確に描いている。その結果、モヨン神父の言葉が心に残り続け、理性的にも感情的にも「自分ならどうできただろうか」を自省せざるを得ない映画になった。

 フォルカー・シュレンドルフ(1939~)は、ファスビンダー、ヘルツォークなどと並ぶ、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手だった人で、何と言っても大傑作「ブリキの太鼓」で知られる。ギュンター・グラスの大長編を巧みに映画化し、カンヌ映画祭最高賞、米アカデミー外国語映画賞、キネマ旬報ベストワンと世界のどこでも最高の評価を受けた。その成功を受けてのことか、次作でプルーストを映画化した「スワンの恋」を作ったけど、その後はアメリカで作ったりしていた。ちなみに昨年日本でも評判を呼んだ「ハンナ・アーレント」を作ったマルガレーテ・フォン・トロッタと結婚している。

 今まで知らなかったが、シュレンドルフは17歳の時、学生交換事業でフランスに留学している。その後、パリで大学に通いながら、映画作りに関わるようになる。特にルイ・マルと知り合い、「地下鉄のザジ」や「鬼火」「ビバ!マリア」などの助監督をした。他にもアラン・レネの「去年、マリエンバードで」などに関わっていたのである。10年間のフランス生活が終わって、ドイツに帰って映画を作るようになり、すぐ認められた。つまり、監督の青春はフランスにあったのである。しかし、この事件のことは詳しくは知らなかったらしいが、関係書を渡され心が動いたという。ポーランドの話なら撮らなかった、フランスでの事件だから映画化したと述べている。

 この事件で犠牲になったギィ・モケは、その手紙の心打つ内容とともに、後に非常に有名となり、英雄として神話化され、パリの地下鉄の駅名になっているらしい。共産党系として処刑されたため、特にフランス共産党のレジスタンス神話に使われてきたらしいが、サルコジ前大統領が高校生全員にギィの手紙を読むように指示を出したという。このように今も「政治的に利用される」中で、ドイツ人監督が映画化することには反対もあったというが、できてみたら大好評だった。そのため、早くもフランスでの第2作、同じく占領中を扱った「パリよ、永遠に」が作られ、日本でも2015年3月に公開が予定されている。

 戦後の長い時間をかけた「独仏和解」が若い世代の地道な交流から進んで行ったということが、感動的である。50年以上経って、このような成果を生む。ドイツはナチス時代を克服し「歴史認識」をめぐって隣国と争うようなこともない。日本とは大きく状況が違う。それにしても「歴史認識」の重要性を思い知らされる。また、あえて「戦争」などと大状況を持ち出さなくても、日々の暮らしの中でも「命令だから、仕方ない」「もう決まったことだから、どうしようもない」と考えてしまうことが多いはず。東京で教員をしてきたから、「もう決まった」「命令だから」は聞き飽きるぐらい聞いた。昔は「日の丸・君が代の強制は許すな」などと先頭に立っていた人が、いつの間にか管理職になっていて、「通達が出たから」「もう決まったことだから」「仕方ないから」と盛んに言っていたものだ。「中高一貫化」とか「主幹教諭」「主任教諭」、「教員免許更新制」と、もう決まっちゃんだから仕方ない、命令だからやむを得ない、自分の立場ではやむを得ない…などという訳である。全く、よその国の昔の出来事として見てられなかったですよ
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