本や映画に関して自分の備忘のために何回か書いておきたい。書いておかないと忘れてしまうから。まずは昨年暮れに出た本で、ちょっと前に読んだJ・M・クッツェー「遅い男」(J.M.Coetzee Slow Man、早川書房)の話。小説を読みなれた人でないと推薦はできないけれど、大変な問題作で小説愛好家なら読んでおきたい本。ただ、クッツェ―は他に先に読んでおきたい本がある。特に「エリザベス・コステロ」という小説は、本作と密接な関連があり先に読んでおかないと著者のねらいがよく伝わらないだろう。

そもそもクッツェ―とは何者かという人も多いと思うけど、2003年のノーベル文学賞を受賞した世界的な作家である。イギリスの有名な文学賞であるブッカー賞を2度受賞したことでも知られている。ノーベル賞を取った時点では国籍が「南アフリカ」とされていた。南アフリカ国籍でノーベル文学賞を受けた人には、ナディン・ゴーディマという女性作家がいる(1991年受賞)。ゴーディマもクッツェ―も反アパルトヘイトの言論で知られていて、僕もそういう関心で読んでいた。しかし、その後大傑作の「恥辱」という小説が、政権政党となったANCに批判されたこともあって、クッツェ―はオーストラリアに転居してしまった。民族的には1940年生まれのアフリカーナ―(数百年前から住みついて土着化しているオランダ系の人々で、アフリカーンス語を話す。アパルトヘイト体制を作った人々)なんだけど、英語で書いてきた。イギリス、アメリカに住んで、本当は米国市民権が欲しかったというが、ベトナム反戦運動に参加してふいにしたらしい。だから一貫して英語で表現してきた作家であり、南アフリカからオーストラリアに居を移しても、「亡命」とか「移民」とは言えない。今はアデレードに住んで、この小説もそこが舞台になっている。
日本でも結構翻訳されていて、「夷狄を待ちながら」(1980、集英社文庫)、「マイケルK」(1983、ちくま文庫、ブッカー賞)、「恥辱」(1999、ハヤカワepi文庫、ブッカー賞)と3冊も文庫本が出ている。池澤夏樹編集の世界文学全集(河出)には「鉄の時代」(1990)が収録されている。他にも翻訳は出ているが僕は読んでいない。これらの作品を読んでみると、特に最初の2冊はどこの話かも判らない寓話的な話になっている。「夷狄を待ちながら」は、ある帝国の辺境の地で民政官を務める男の目を通して、その地へやってきた軍隊を描く。軍の拷問や強硬路線を批判する話とも読めるが、同時に「夷狄」を必要とする「帝国」の構造を寓話で描く作品とも言える。開高健の「流亡記」やベケット、別役実を思わせるような「不条理劇」という感じの作風。それは「マイケルK」も同じで、内戦が激化し母親を連れて故郷を目指す男の話である。これらは発表当時の南アフリカの厳しい言論状況を考えて、発禁にならないように寓話的に書いたと言う。が、それだけでもないだろう。クッツェ―は本質的に方法的な実験をする作家であり、寓話として世界を語る作家だと思う。だからアパルトヘイトという「政治的課題」が一段落しても、世界の構造としての暴力を描いているから古びていない。
アパルトヘイト体制下のケープタウンを一番描いているのは、「鉄の時代」だろう。ガンに侵された老女性がアメリカに住む娘にあてて書いた「遺書」を、いつのまにか家に住みついてしまう「ホームレス」に託すまで。「病気」と「暴力」を描きつつ、黒人少年への警察の暴力を告発する姿が印象的で、差別と暴力の構造を余すところなく描く。「恥辱」になると、もうアパルトヘイトは終わっている。白人で初老の大学教授が女子大生と性的関係を持ってしまい大学を解雇される。疎遠だった娘がいるのだが、彼女はさまざまな遍歴の結果、今は農業をやっていて、結局そこに転がり込む。その娘は黒人支配体制下で生きて行かなくてはならず、性暴力に見舞われ、どんどん変容していく。大変面白く、読みやすい風俗小説の趣もあるが、「性」「暴力」だけで読んでしまうと、この小説が持っている方法的な「毒」が見えにくい。ある男の「転落」を描きつつ、ここでも「暴力」が変える社会のありさまを寓話的に描いている。その黒人社会の中の「暴力」の描き方が、民族文化批判のように受け取られて、クッツェ―は南アフリカを離れた。しかし、たぶん彼はどこにいたときも「内的亡命者」として生きていたのではないかと思う。
そしてノーベル賞を受け、オーストラリアに移った後の最初の作品が「エリザベス・コステロ」(2003)だけど、一体これは小説なのか。エリザベス・コステロなるオーストラリア女性の老作家が抱く様々な文学、哲学、社会評論がこの「小説」。架空作家だから「小説」と言えるが、中身は評論集と言った方がいいし、ほとんど彼自身の意見を書いているところもあるようだ。ただ本の中では、女性作家の意見という形で進行する。作家が自分の代わりのような人物を作品に登場させることはよくあるけど、性を変えて登場させるのは珍しいし、ほとんど論評だけというのも珍しい。
そして「遅い男」。冒頭で交通事故。自転車に乗っていた初老の男が片足を失う。「突然の障害」という人生の転機がやってくる。離婚した妻はいるが、事故時点では独り身の自由を生きてきたけれど…。しかし「障害」が介護を必要とし、介護士が派遣されるようになる。なかなか小うるさい男で、文句が多いが、あるクロアチア人の女性が来るようになると、素晴らしさを「発見」し、次第にあらぬ欲望を覚えていく。夫と二人の子もいるというのに。クロアチアについて調べたり、ちょっと近づいたり、いろいろあって…。ここまででも、「障害」と「老い」と「性」を、「介護」という視点で描いた問題作で、「介護文学」とも言える。障害そのものが人間にとって異文化で、それをクロアチア女性が担うことによって、まさに異文化体験となる。ところがこの小説はそこに止まらない。突然小説内にエリザベス・コステロなる老女性作家が乱入してくる。前作の主人公である。この女性は「影の作者」なのだから、これは小説内に作家が入り込んでしまったというのに近い。しかし、作家そのものではないので、女性として男性主人公と相談し、物語の結論をつけていく。もちろん介護士が夫と離婚し主人公と結婚するというようなことはありえないだろう。だけど、なんか彼女の役に立ちたい。長男の私立学校進学を支援したい。それならいいのでは。でも夫は納得できない。ここに長男が登場する。これがまた傑作な登場人物で、現代世代の若さが老人世代の二人を圧倒してしまう。メチャクチャなんだか、思いやり深いのか。いい加減なんだか、計算高いのか。生き生きと現代青年の姿が描かれている。
そういう「メタ小説」であると同時に、障害者と健常者、老人と若者、男と女、定住者と移民、など様々の「二項対立」が作品内で意味が変わっていく様子が描かれていく。「介護と老いと性」という「危険だけれども、安全なテーマ」が「脱構築」されてしまう。後半は議論が多くて、けっこううっとうしい作品でもあるけれど、小説の方法としてもテーマとしても、大変な問題作。小説が好きな人なら、名訳で読みやすいと思う。クロアチア移民の姿も印象的だが、特にどんどん適応していってオーストラリアの軍人になりたいと思っている長男が印象的である。重要な作家の重要な作品。

そもそもクッツェ―とは何者かという人も多いと思うけど、2003年のノーベル文学賞を受賞した世界的な作家である。イギリスの有名な文学賞であるブッカー賞を2度受賞したことでも知られている。ノーベル賞を取った時点では国籍が「南アフリカ」とされていた。南アフリカ国籍でノーベル文学賞を受けた人には、ナディン・ゴーディマという女性作家がいる(1991年受賞)。ゴーディマもクッツェ―も反アパルトヘイトの言論で知られていて、僕もそういう関心で読んでいた。しかし、その後大傑作の「恥辱」という小説が、政権政党となったANCに批判されたこともあって、クッツェ―はオーストラリアに転居してしまった。民族的には1940年生まれのアフリカーナ―(数百年前から住みついて土着化しているオランダ系の人々で、アフリカーンス語を話す。アパルトヘイト体制を作った人々)なんだけど、英語で書いてきた。イギリス、アメリカに住んで、本当は米国市民権が欲しかったというが、ベトナム反戦運動に参加してふいにしたらしい。だから一貫して英語で表現してきた作家であり、南アフリカからオーストラリアに居を移しても、「亡命」とか「移民」とは言えない。今はアデレードに住んで、この小説もそこが舞台になっている。
日本でも結構翻訳されていて、「夷狄を待ちながら」(1980、集英社文庫)、「マイケルK」(1983、ちくま文庫、ブッカー賞)、「恥辱」(1999、ハヤカワepi文庫、ブッカー賞)と3冊も文庫本が出ている。池澤夏樹編集の世界文学全集(河出)には「鉄の時代」(1990)が収録されている。他にも翻訳は出ているが僕は読んでいない。これらの作品を読んでみると、特に最初の2冊はどこの話かも判らない寓話的な話になっている。「夷狄を待ちながら」は、ある帝国の辺境の地で民政官を務める男の目を通して、その地へやってきた軍隊を描く。軍の拷問や強硬路線を批判する話とも読めるが、同時に「夷狄」を必要とする「帝国」の構造を寓話で描く作品とも言える。開高健の「流亡記」やベケット、別役実を思わせるような「不条理劇」という感じの作風。それは「マイケルK」も同じで、内戦が激化し母親を連れて故郷を目指す男の話である。これらは発表当時の南アフリカの厳しい言論状況を考えて、発禁にならないように寓話的に書いたと言う。が、それだけでもないだろう。クッツェ―は本質的に方法的な実験をする作家であり、寓話として世界を語る作家だと思う。だからアパルトヘイトという「政治的課題」が一段落しても、世界の構造としての暴力を描いているから古びていない。
アパルトヘイト体制下のケープタウンを一番描いているのは、「鉄の時代」だろう。ガンに侵された老女性がアメリカに住む娘にあてて書いた「遺書」を、いつのまにか家に住みついてしまう「ホームレス」に託すまで。「病気」と「暴力」を描きつつ、黒人少年への警察の暴力を告発する姿が印象的で、差別と暴力の構造を余すところなく描く。「恥辱」になると、もうアパルトヘイトは終わっている。白人で初老の大学教授が女子大生と性的関係を持ってしまい大学を解雇される。疎遠だった娘がいるのだが、彼女はさまざまな遍歴の結果、今は農業をやっていて、結局そこに転がり込む。その娘は黒人支配体制下で生きて行かなくてはならず、性暴力に見舞われ、どんどん変容していく。大変面白く、読みやすい風俗小説の趣もあるが、「性」「暴力」だけで読んでしまうと、この小説が持っている方法的な「毒」が見えにくい。ある男の「転落」を描きつつ、ここでも「暴力」が変える社会のありさまを寓話的に描いている。その黒人社会の中の「暴力」の描き方が、民族文化批判のように受け取られて、クッツェ―は南アフリカを離れた。しかし、たぶん彼はどこにいたときも「内的亡命者」として生きていたのではないかと思う。
そしてノーベル賞を受け、オーストラリアに移った後の最初の作品が「エリザベス・コステロ」(2003)だけど、一体これは小説なのか。エリザベス・コステロなるオーストラリア女性の老作家が抱く様々な文学、哲学、社会評論がこの「小説」。架空作家だから「小説」と言えるが、中身は評論集と言った方がいいし、ほとんど彼自身の意見を書いているところもあるようだ。ただ本の中では、女性作家の意見という形で進行する。作家が自分の代わりのような人物を作品に登場させることはよくあるけど、性を変えて登場させるのは珍しいし、ほとんど論評だけというのも珍しい。
そして「遅い男」。冒頭で交通事故。自転車に乗っていた初老の男が片足を失う。「突然の障害」という人生の転機がやってくる。離婚した妻はいるが、事故時点では独り身の自由を生きてきたけれど…。しかし「障害」が介護を必要とし、介護士が派遣されるようになる。なかなか小うるさい男で、文句が多いが、あるクロアチア人の女性が来るようになると、素晴らしさを「発見」し、次第にあらぬ欲望を覚えていく。夫と二人の子もいるというのに。クロアチアについて調べたり、ちょっと近づいたり、いろいろあって…。ここまででも、「障害」と「老い」と「性」を、「介護」という視点で描いた問題作で、「介護文学」とも言える。障害そのものが人間にとって異文化で、それをクロアチア女性が担うことによって、まさに異文化体験となる。ところがこの小説はそこに止まらない。突然小説内にエリザベス・コステロなる老女性作家が乱入してくる。前作の主人公である。この女性は「影の作者」なのだから、これは小説内に作家が入り込んでしまったというのに近い。しかし、作家そのものではないので、女性として男性主人公と相談し、物語の結論をつけていく。もちろん介護士が夫と離婚し主人公と結婚するというようなことはありえないだろう。だけど、なんか彼女の役に立ちたい。長男の私立学校進学を支援したい。それならいいのでは。でも夫は納得できない。ここに長男が登場する。これがまた傑作な登場人物で、現代世代の若さが老人世代の二人を圧倒してしまう。メチャクチャなんだか、思いやり深いのか。いい加減なんだか、計算高いのか。生き生きと現代青年の姿が描かれている。
そういう「メタ小説」であると同時に、障害者と健常者、老人と若者、男と女、定住者と移民、など様々の「二項対立」が作品内で意味が変わっていく様子が描かれていく。「介護と老いと性」という「危険だけれども、安全なテーマ」が「脱構築」されてしまう。後半は議論が多くて、けっこううっとうしい作品でもあるけれど、小説の方法としてもテーマとしても、大変な問題作。小説が好きな人なら、名訳で読みやすいと思う。クロアチア移民の姿も印象的だが、特にどんどん適応していってオーストラリアの軍人になりたいと思っている長男が印象的である。重要な作家の重要な作品。