尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

イスラエルとアメリカ-緊迫!イラン情勢⑧

2012年03月06日 21時50分01秒 |  〃  (国際問題)
 イラン情勢も長くなってきたので、今日でいったん終わりたい。ここでいくら書いていても結論は出ない問題だから。この間、イランで国会議員選挙が行われ、一方イスラエルのネタニヤフ首相がアメリカを訪問してオバマ大統領と会談した

 ニュースによれば(毎日新聞)、
 「イランの核開発問題でオバマ大統領が外交的解決を優先させたいと訴えたのに対し、ネタニヤフ首相は「イスラエルは自衛権を保持せねばならない」と強調し、イラン核関連施設への軍事攻撃の可能性を取り下げようとしなかった。冒頭のみ報道陣に公開された。オバマ大統領は「まだ外交的解決の余地はある」と言い、「首相も私も外交的に解決することを望んでいる。我々は軍事行動の代償を理解している」と語った。一方で「イランの核兵器獲得を防ぐためには、すべての選択肢が机上にある」とも言い、武力行使の可能性にも含みを残した。」冒頭のみ公開されたあと、2時間会談が続いたとある。

 ネタニヤフ首相はそのあとで、「イスラエル系ロビー団体「アメリカ・イスラエル広報委員会(AIPAC)」の会合で演説し、イランの核武装化について「イスラエルは根気よく国際社会による外交的解決を待っていたが、これ以上は待てない」と語った。」という。ここには13,000人が出席した。

 今年はスーパー選挙イヤー。ロシア大統領選が予想通りプーチンが勝利したが、最大の選挙はもちろん11月の米大統領選挙である。ここでオバマ再選がなるか、どうか。まだ対立の構図もはっきりしていないが、経済指標の好転が見られオバマ陣営に追い風となりつつある。しかし、この経済再建は思ったほど「チェンジ」するのが難しかった。何かあれば一転して一期目の経済政策を問われる場面もありうる。そういう中で、「ユダヤ票を失うわけにはいかない」「新しい戦争を始めるわけにはいかない」という、綱渡り外交を強いられることになる。イスラエルはオバマ再選を有力と見て、選挙まではオバマの要請を受け入れる形で「イラン攻撃を自制」して、イランの姿勢が替わらない場合は2013年初めにも攻撃に踏み切るのではないか、というのが一番ありそうな想定だと思う。

 当面オバマ政権が早期のイラン攻撃を止めたいのは本心だろう。イラク戦争終結と言う「公約」を一応果たした形となっていて、ビン=ラディンも「仕留めた」ところに、絶対に泥沼になるに決まってるイラン攻撃に足を取られたくないだろう。イスラエルのイラン攻撃は、中東大動乱に結びつく可能性が相当に高い。しかし、イランの核開発は止められず、従ってイスラエルのイラン攻撃は「時期の問題」である(つまり「止めることができない」)という観測が強い

 イランの選挙は、ハメネイ師支持の候補が多数当選したと伝えられている。一昨年来、最高指導者のハメネイ師とアフマディネジャド大統領(革命防衛隊を支持基盤とする)が隠微な形で対立を続けている。これをどう見るかだが、これは支配層内部の指導権をめぐる対立であって、体制自体が揺らぐような問題ではないと思われる。聖職者ではない大統領が政争に勝つことは、本来ありえない。核問題に対しては、どちらの勢力も「欧米に屈するな。イランの核開発の権利を守れ」の立場であって、イランから折れて出ることは考えにくい。イランの場合、大統領や国会はさておき、最高指導者のハメネイ体制が変わらない限り政策の転換は難しい。経済制裁の効果は薄いとしても、他に打つ手がない。

 イスラエルの特殊な政治情勢も考えておかなければいけないが、今回は省略。1967年の第3次中東戦争で占領したままのヨルダン川西岸やゴラン高原の問題の解決、つまりパレスティナ和平がならなければ、他の問題も残り続ける。しかし、イスラエル国内の政局はヨルダン川西岸の入植地からの引き揚げができる状況ではない。パレスティナ内部でも、選挙をやればガザ地区で強硬派のハマスが勝利したわけで、妙案がない。

 アメリカも手の打ちようがない状態が続いているから、日本が何か言っても仕方ないと言えばその通り。でも日本にとってこれほど死活的な利害がからむ地域もないのだから、両者に向けもっときちんと平和の価値を発信するべきだと思う。インドネシアやトルコとともにイランに働きかけるべきというのは先に書いた。それとともに、この問題はイスラエルが核兵器を持つと言われ、イランも核開発を目指しているらしいという問題である。ここは「唯一の被爆国」である日本が発言する権利と義務がある。イランとイスラエルの有力者を「広島」「長崎」「福島」に招く活動をすべきである。

 またイランのノーベル平和賞受賞者、人権派の女性弁護士シーリーン・エバディを招き、イランの人権状況を学ぶことも考えられる。4月にもアウン・サン・スー・チーが国会議員に当選し、国外活動もできるようになる可能性が高い。昨年のノーベル平和賞、リベリアのサーリーフ大統領も含め、「ノーベル平和賞女性受賞者シンポジウム」を日本で開催する試みをどこかで進められないか。などなど、いろいろ知恵をしぼり、内外に平和を訴える場を作ることを考えて欲しい。「北朝鮮」の核問題は一応の進展を見せた。(完全に信用できる段階ではないが。)イランもIAEAの査察を拒否してはいけないというのは基本線である。そこは「国際的圧力」以外に方法がない。日本もイランからの原油輸入を削減するのも、(アメリカとの関係を別にしても)やむをえないと考える。しかし、文化的関係などは続けて行って、イラン国民に働きかける場を確保しておく必要もある。ま、そんなところで。イラン映画は是非見ましょうね。イラン理解は大切だから。
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「物語 近現代ギリシャの歴史」

2012年03月06日 00時39分24秒 |  〃 (歴史・地理)
 2月の中公新書新刊。村田奈々子「物語 近現代ギリシャの歴史」。ギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスが1月に交通事故で逝去して、ここでも追悼を書いておいた。(「追悼テオ・アンゲロプロス」)その「アンゲロプロスの訃報に接した日に」とある「おわりに」を持つ本。これでギリシャ現代史について大体わかると言う本である。アンゲロプロスの追悼上映も池袋・新文芸坐で企画されている。まずはこの本で勉強しておきたいなと思った。

 読んで思ったのは、19世紀初頭のギリシャ独立というのは、まったく列強の都合で成立した出来事だったということ。19世紀ヨーロッパの歴史は、国民国家の発展、帝国主義化という道筋で、イギリスやフランスを中心に語られる。ドイツやイタリアは統一が遅れ「遅れてきた帝国主義国」になる。そういう中で、19世紀初めにオスマン帝国に対するギリシャ独立運動が起こり、いろいろあったあげく1830年に一応の独立を認められる。だから、なんとなく「ギリシャという国民国家」がここに「復活」したかに思ってしまう。今まで実は僕もそう思っていたのである。

 でも、よく考えて見れば、確かにギリシャという国はそれまで歴史上にただの一回もなかった。古代にあったのはアテネやスパルタと言う都市国家(ポリス)だし、その後はアレクサンドロス大王の支配からローマ帝国へ、そしてローマ帝国分裂で東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の千年間、そしてオスマン帝国である。であるならば、ギリシャ人にとっては、復活すべきは「古代の栄光」なんかではなく、正教にもとづく「ビザンツ帝国の復活」だという考えも多かったとしても不思議ではない。今では、ギリシャの首都と言えば、第1回のオリンピックを1896年に開いたアテネに決まってると世界中が思ってるだろう。でも当時は、ギリシャ人の真の首都は「コンスタンティノープル」(イスタンブール)であるべきだ、と考えていたギリシャ人が多かった。そういう「大ギリシャの建設」をめざす「メガリ・イデア」が20世紀前半までのギリシャ人の夢だった。

 この夢はある程度は実現し、テッサロニキなどマケドニアやクレタ島などは獲得するが、結局はコンスタンティノープルの奪還とエーゲ海東岸(イズミルなど)獲得はあきらめなくてはならなかった。最終的には第一次世界大戦後の話となる。その間、オスマン帝国をめぐってはバルカン半島で何度も戦争があった。その時代を首相としてギリシャ近代化を目指した大政治家が、エレフテリオス・ヴェニゼロス(1864~1936)という人である。パリの空港が「シャルル・ドゴール空港」であるように、アテネの国際空港は「ヴェニゼロス国際空港」というのである。1910年に首相になって以来、都合9回首相をつとめ、行政、教育、司法などの近代化をはかった。この本でも第4章全体が「闘う政治家ヴェニゼロスの時代」となっている。でも、この人の名前知ってた人、ほとんどいないでしょう。

 ヴェニゼロスはもともとクレタ島の生まれで、クレタ島がまだギリシャ領になっていない時代に本国に招かれて首相となったと言う人である。本国の伝統的支配層の人ではなく、近代化政策が抵抗を買うことも多かった。第一次世界大戦にあたっては、国王が中立を主張し、ヴェニゼロスが連合国側での参戦を主張した。それ以後、ずっとヴェニゼロス派と王党派にギリシャ政界は二分され政争が絶えなかったという。そういう政治風土を作ってしまったとも言える。(なお、ギリシャ独立にあたっては、列強によって王政が選択され、ヴィスコンティの映画にもなって有名なバイエルン国王ヴィルヘルム1世の次男オトンが初代国王に招かれた。しかし失政が多くクーデタがおこり1863年に廃位され、17歳のデンマーク王子が国王に就いた。ゲオルギウス1世。以後、数代続いていくが、1974年軍事政権崩壊後に国民投票で王制廃止。)

 第二次世界大戦では、まずイタリアに侵攻され、続いてナチス・ドイツに占領された。王室と政府はカイロに亡命政府をつくるが、国内では共産党系のゲリラ組織が勢力を広げていた。ティトーを中心に自力で解放したユーゴスラヴィアと同じく、自ら解放することもありえなくはなかった。しかし、ギリシャの地理的重要性からイギリスはギリシャの共産化を認めず、スターリンもギリシャをイギリス勢力圏と認める。こうして、国内で「兄弟殺し」の内戦が始まるのである。そして軍による「白色テロ」が横行し、政治犯があふれ多くの人々が銃殺されていった。隣国ユーゴスラヴィアがソ連と対立するようになって、ギリシャ共産党はソ連を支持したためにユーゴの支援がとまり、ついに展望がなくなった左翼勢力は壊滅し、10万人近くが亡命したという。こうした事情は、台湾で1947年に起こった「二・二八事件」後の情勢、あるいは1948年に韓国済州島で起こった「四・三事件」などを思い起こさせる。どちらも数万人の犠牲者が出たという。

 その後1967年に軍事政権が成立し数多くの人権侵害が起こった。1974年にキプロス問題で行き詰り軍事政権が崩壊して、ようやく安定した民主主義の時代がやってくる。しかし、その後もなかなか大変である。軍事政権崩壊後、王制廃止、EU(当初はEC)参加を主導したのは、保守派のカラマンリスで首相、大統領を務めた。右派の新民主主義党は甥のコスタス・カラマンリスが継いでいる。2004年~2009年に首相。一方、左派の方では、ゲオルギオス、アンドレアス、ゲオルギウス=アンドレアスと三代のパパンドレウ一族が首相を務めている。なんだかインドのガンディー家みたいな政治状況である。

 1981年、全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が勝利して、アンドレアス・パパンドレウが首相に就いた。野党時代はNATOやECからの脱退もありうるような主張を掲げてナショナリズムを主張していたようだが、政権についたら野党時代の主張は引っ込めてしまったという。一方、内政では女性の地位向上などを進めるとともに「特権なき人々」のための政策を推進した。しかし、それは国民の中に「パトロン・クライアント関係」を拡大してしまい、年金、保険、賃金などの充実を続けて行ってしまう。そこに現在の経済危機にいたる直接のきっかけがある。(しかし、もっと長い目でみれば、産業なき辺境地域が「古代の栄光」という神話によって「国民国家」の地位を与えられたという歴史的事情が前提にある。)しかし、この外交と内政の問題は、「政権交代」後の民主党を見てみると他人ごとではないなあと思った

(なお、追悼文では「ギリシア」と書いた。ギリシアとかペルシアというのは「教科書的書き方」なのである。どっちでもいいと思うけど、今回は書名にあわせてギリシャと書く。)
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