尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・吉本隆明

2012年03月16日 23時50分04秒 | 追悼
 戦後日本の思想界に大きな影響を与え、安保反対や全共闘運動に揺れた1960年代に「反逆する若者たち」のカリスマ的存在だった詩人・評論家吉本隆明(よしもと・たかあき)さんが、16日午前2時13分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。87歳だった。(朝日新聞)

 追悼するほど読んでないけれど、重要な存在ではあったので、そういう人は書いておきたいなと思う。ずいぶん長く生きたように思っていたけれど、まだ80代だったのだな。60年安保の時にブントと行動をともにして逮捕までされた。総括として書いた「擬制の終焉」で既成左翼、特に日本共産党を激しく批判し、新左翼の教組的存在となった。「自立の思想」を唱えて、そのころの若者にとってはマルクスやサルトルなみの思想家と思われた。多くの人が「共同幻想論」などをかかえていたが、わかったとは思えない。(吉本をかかえて歩いていた人は本当にたくさん見た。)

 高校時代だったと思うけど、何かの全集に入っていた「転向論」を読んで全く歯が立たなかった。大学時代に講談社の「現代の文学」に入っていた「共同幻想論」を読んで、これも少し読んで判らないのでやめた。でもこの時に「転向論」を再読したら、実によくわかった。こういう意味だったのか。「問題意識」がないと何も判らないのである。その後、「共同幻想論」や「言語美」なんかが角川文庫に入ったときがあって、これも買ってあるけど、まあそのままである。同時代的には、81年の「最後の親鸞」まではかなり注目していたけど、82年に「反核異論」を出したのを見て読まなくいいという気になったのである。

 「転向論」(1958)というのは、戦前の共産党幹部が共産党批判声明を出して「転向」した問題を扱う。一貫して「転向」せずに「獄中18年」を過ごし戦後釈放された「非転向幹部」もいて、当時は思想や党派は違っても、かれらを「英雄視」していた時代である。しかし、吉本は日本的現実に屈服し「日本主義者」として右翼活動家になってしまった元幹部と、日本的現実に目を閉ざし外国の理論に閉じこもることで「非転向」を貫くことは、思想のあり方としては同じなのだというテーゼを出している。日本的現実に真っ向から立ち向かわずに、屈服するのと断罪するのは同じ思考回路であると。そして、中野重治の「転向」後の小説などに、日本的現実と向かい合う苦悩を読み取り、そこに可能性を評価している。僕は浪人時代に、中野重治の「村の家」を初め、「歌のわかれ」「むらぎも」「梨の花」などを読んで大変感動した。そのことがあったので、この中野評価へいたる論理が納得できる思いがした。この論文のロジック、現実と向かい合わずに、全面屈服するのと全面断罪するのは同じだという発想は、その後の僕に大きな影響を与えてきた。基本的には今も大賛成。

 でも、そういうことなら、80年代以降の消費社会の全面擁護などが判らない。まあ、ちゃんと読んでもこなかったけど。日本の大衆を全面的に信じる、などということは僕にはとてもできない。日本だろうと、どこだろうと、大衆だろうと知識人だろうと。それと池袋にあった芳林堂でときどき「試行」を見ていたが、あの罵倒の激しさはかなわないなという感じだった。

 ところで、でも、僕は昔、詩をよく読んでいて、50年代の詩は素晴らしいと思っている。ととえば…
ぼくが罪を忘れないうちに
 僕はかきとめておこう 世界が
 毒をのんで苦もんしている季節に
 僕が犯した罪のことを ふつうよりも
 すこしやさしく きみが
 ぼくを非難できるような 言葉で (以下省略)

異数の世界へおりていく
 異数の世界へおりていく かれは名残り
 おしげである
 のこされた世界の少女と
 ささいな生活の秘密をわかちあわなかったこと 
 なお欲望のひとかけらが
 ゆたかなパンの香りや 他人の
 へりくだった敬礼
 にかわる時の快感をしらなかったことに (以下省略)

涙が涸れる
 きょうから ぼくらは泣かない
 きのうまでのように もう世界は
 うつくしくもなくなったから そうして
 針のようなことばをあつめて 悲惨な
 出来ごとを生活のなかからみつけ
 つき刺す (以下省略)

 50年代に書かれた、このような「硬質の叙情」はそれまでの日本の言語表現にはなかった。今でもヒリヒリと胸を刺す言葉の群れである。なんだか原発事故の詩のようでもある。
 特に「涙が涸れる」の中の「とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ」とか、
小さな群への挨拶」の中の「あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ」「昨日までかなしかった 昨日までうれしかったひとびとよ」「ぼくはでてゆく 冬の圧力の真むこうへ ひとりつきりでは耐えられないから たくさんのひととてをつなぐというのは嘘だから」「ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる 僕がたおれたらひとつの直接性がたおれる」などのフレーズが大好きだった。

 その「小さな群への挨拶」のラスト
 だから ちいさなやさしい群よ
 みんなひとつひとつの貌よ 
 さようなら
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「3・10」と「3・11」(東京大空襲と東日本大震災)

2012年03月16日 00時21分19秒 |  〃 (歴史・地理)
 「3・11」に関連していくつか書きたいなという気持ちと、静かにしていたいなという気持ちの両方があったまま、新聞を見直した記事を書いただけで終わっている。実は月火で書くつもりだったけど、パソコンさえ見れない状態だったので。本当は「卒業式」について、大阪の事態も含めて考えてみたいと思ってるんだけど、その前にやはり書いてしまいたい。

 3月10日に「東京大空襲・戦災資料センター」が開催した「東京大空襲を語り継ぐつどい 東京大空襲・戦災資料センター 開館10周年」という集会に参加した。とてもたくさんの人が参加していて、知人もいたのではないかと思うけど会えなかった。僕が前に紹介したことがある立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎さんの講演があった。これが予想通りとても面白かった。当日の体験談は各紙東京東部版に載っていたので読んだ方もいるかと思う。

 勤務地が六本木だった5年間を除き、3月10日はとても身近な日だった。一日に10万人が亡くなったとされる「東京大空襲」の日である。(これは東日本大震災どころか、広島、長崎、沖縄戦のどの日よりも「一日で失われた人命」としては多いのである。その前の1923.9.1よりも多い。)今は「東京都平和の日」とされている。東京東部が集中的に空爆され、焼け残った東京西部は5月25日の大空襲の被害が大きかった。だから東京東部の学校の方が意識や関心が高いかもしれない。六本木の前の墨田川高校定時制では高齢の生徒がいて大空襲の体験者だった。授業で話を聞いたことがある。「東京大空襲」の著者で資料センター館長の早乙女勝元さんも、墨田川高校定時制の出身である。高校の最寄駅の東武線東向島(昔の「玉ノ井」)の隣が「鐘ヶ淵」駅で「鐘ヶ淵紡績」つまり「カネボウ」(粉飾決算でつぶれて化粧品のブランド名だけ花王に買われて残った)のあったところである。そこ(紡績工場)に母親が勤労奉仕で行っていた。工場は空襲で焼けて、下町に住んでいた友人は何人か亡くなった。死んだ友人から空襲後に着いたハガキがあった。という話を小さい頃から聞いている。

 そういうことがあった日だけど、去年は自分の問題もあり、10日と11日の連続に意識が向かなかった。今後は次に東京を大地震が起こるときまで、「10日」と「11日」が続くという3月が毎年訪れるのである。

 さてここで特に書いておきたいと思ったことが3つある。
 一つは「平和博物館」のことである。「東京大空襲訴訟原告団」のホームページで、犠牲者氏名記録を呼びかけている。これは本来行政がやることではないか。実際大阪では「ピースおおさか(大阪国際平和センター)」に「刻(とき)の庭(にわ)」という犠牲者名を刻した施設がある。沖縄の「平和の礎(いしじ)」のようなところである。(つぶされないでしょうね、ここ。)ところが東京ではない。というか、こういう平和博物館はもう出来ているはずだった。これだけの被害を受け、「戦争を始めて今は平和国家となった国」の首都に「平和博物館」がなくていいのか。作って欲しいという声はずっとあり、作ることになり、計画が進んでいた。99年にその計画は「凍結」された。99年に何があったか。言うまでもないだろう。「あの人」が知事に当選したのである。

 二つ目。空襲被害に補償を求める訴訟が起こされている。くわしくは前記ホームページで。一審敗訴で、控訴審判決が4月25日午後3時に予定されている。僕はこのことをちょっと検索していて、某「知恵袋」サイトで「今頃裁判なんて」という意見を見つけた。戦争被害は「全国民が受忍するべきもの」と最高裁判決があるはず、というのである。(それは確か。)しかし、「外地引き揚げを体験した母に聞いても、今さら裁判なんてと言ってました」とか書いてあった。僕が不思議に思うのはこの「母の話」である。多分書いた人は単なる無知なんだと思うし、母親も昔のことで忘れてしまっているのかもしれないけど、「外地引き揚げ者には1967年に補償立法がなされている」のである。多分多くの人は聞いたことがないかもしれないけど、「引揚者に対する特別交付金支給法」である。それは十分なものではなかったかもしれないが、このように自分はもらっておいて空襲被害者だけはもらうなとは言えないだろう。こういうのは「現代史健忘症」とでもいうべきか。戦争被害はいろいろあるが、本来は「銃後」で非戦闘員だった市民がなぜ大規模な空襲を受けなくてはならなかったのか。(もっとも最初に大規模な市民爆撃を開始したのは、イタリア、ドイツ、日本であったのは間違いないが。)空襲被害者は戦後なんの補償措置も受けていないのである。

 三つ目。そのことを考えると、先の集会で安斎さんが最後に述べたことを紹介する。「3・10」と「3・11」をつなぐもの。それは「国のあり方」を考え直していかなければいけないということだ。その前に「水戸黄門症候群」「鉄腕アトム症候群」という話をした。これは僕も授業でよく話したが、安斎さんの話は面白かった。つまり、日本の時代劇は皆「この紋所が」「この桜吹雪が」とか言って、「よきオカミ」が解決してしまう。民が自ら解決しない。オカミが解決してくれるのを待つのである。子供向けアニメも同じ。アトムもドラえもんも「ヒーロー」で解決能力が最初からある。子供から大人までこういうのをずっと見て暮らしてきた。それでは民主主義にならない。「主体形成型」の「平和教育」をして行かなくてはいけない、という話。

 国のあり方を問い続ける。これは昨日見た「パーマ屋スミレ」の南果歩演じた女性である。他にも何人も知ってるけど、とりあえず。東京大空襲に関しては、18日(日)のNHKスペシャル「東京大空襲 583枚の未公開写真」(9時から)の放送がある。
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