尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

中公新書「荘園」(伊藤俊一著)を読む

2021年09月29日 22時35分57秒 |  〃 (歴史・地理)
 毎月多くの歴史関係の新書が出る。近現代史の本も多いけど、最近は面倒になっている。むしろ日本の戦国や古代史なんかの方をよく買ってしまう。中公新書新刊で伊藤俊一荘園」が出たので、これを読んでみた。伊藤氏は名城大学人間学部教授。「荘園」(しょうえん)というのは「私有の農園」のことだが、日本史屈指の難解用語だ。政治史に比べて、経済史、社会制度史は判りにくい。政治は「○○の乱」とか「○○の政変」で決着が付く。今なら選挙である。だからいつ変わったかがはっきり判るのに対し、大昔の土地制度はいつのまにか段々変わっていく。現代とは全く仕組みが違っていて、それも理解が難しい要因だ。

 この本は「荘園全史」というべき本で、荘園の発生から消滅までの数百年(奈良時代から戦国時代)の土地制度をじっくり追っていく。特徴として近年発達した古気候学の成果を取り込んで、過去の気温の移り変わりを検討してることが挙げられる。その結果、記録にある大飢饉などは冷夏や大雨、干ばつ、火山噴火などが背景にあることが判る。災害が多いので耕地(水田や畠)は開墾してもすぐなくなってしまう。そこで開発へのインセンティヴとして「荘園」は有効だったのである。詳しく書いてもすぐ忘れてしまうから、できるだけ簡単に。

 この本は相当に判りやすく書かれているが、それでもやっぱり難しい。歴史教員だった自分でもそう思うんだから、一般向けにはなかなか大変だ。でも「荘園」はその後の日本に大きな影響を及ぼしている。農村部に行けば今も中世の荘園の名残が風景に刻印されている地域も多い。地名にも荘園関係のものが多く、例えば大分の「別府温泉」はその代表。詳しくは書かないけれど、「別名」(べつみょう)という制度が作られたことによるのである。

 日本の「荘園」に似た土地制度はヨーロッパや中国にもあった。だから昔はヨーロッパ史を日本に当てはめて、荘園の農民を「農奴」と理解する向きもあった。だが日本では移動の自由があり(自由がない「下人」もいたけれど)、耕地もすぐ荒廃するからどんどん移っている。律令制では本来は「公地公民」だから、公権力が「口分田」を人民に支給して耕作させるのが原則である。しかし、そんな理想はやはりうまく行かないから、朝廷でも「三世一身法」「墾田永年私財法」を出して開発を奨励した。社会主義の「国営農場」(ソ連のソフホーズや中国の人民公社)はうまく行かず、個人経営を認めざるを得なくなったのに似ている。

 歴史の教員は律令制から教えるから、つい「荘園は律令制からの逸脱」と思いやすい。そして鎌倉幕府が出来ると「地頭」を荘園に送り込むから、「武士の成長により古代勢力が浸蝕される」と考えてしまう。昔は地方の開発領主が摂関家に荘園を寄進して「不輸不入の権」を獲得したのが「荘園の成立」だと教科書に出ていた。しかし、荘園の画期は摂関家ではなく、「院政」だった。大規模な「ハコ物行政」を進める独裁者・白河法皇が必要経費を捻出するために「領域型荘園」を大々的に認めていったことこそ、真に重大な画期だった。

 「荘園」は私有農園だが、勝手には作れない。公権力の認可が必要だ。本来は天皇が日本全土を支配している建前だから、荘園なんてない方が国家財政にはいいように思う。しかし、貴族社会では「家」が確立され「家業」が固定化されていった。天皇家でも「天皇という地位」よりも「天皇家の家長」が重大な意味を持つようになる(院政)。そこで「院」が日本最大の荘園領主になるという事態が生じたわけである。そして「荘園」には実際に農園を経営する開発領主(荘官)と、その荘園に支配権を持つ貴族・寺社(領家)と最上位にあって荘園を認可する院・摂関家(本家)の三層構造が存在した。この重層的な職務のあり方を「職(しき)の体系」と呼んでいる。

 源頼朝は東国に支配権を確立した後、自分に従う有力武士(御家人)を「地頭」として荘園に送り込んだ。これは本来あってはならない越権行為である。国家に公認されて存在する荘園に中に、実力で任命権を行使したわけである。そして詳しくは書かないけれど、鎌倉時代を通じて「地頭請」「下地中分」が進んだ。これを昔は僕も「荘園制の浸蝕」と思ったんだけど、そうじゃなくて「荘園制度」の存在を前提にしているのである。

 それが完全に崩れるのが南北朝以後である。そもそも後醍醐天皇の新政で「御家人」がなくなってしまった。幕府がないわけだから当然御家人もないわけだが、これでは幕府という重しがなくなれば実力の世の中である。またそれまでは「散村」が多かったのに対し、室町期には集合して住む村が多くなり「惣村」と呼ばれる村のまとまりが出来る。また宋銭の流入で貨幣経済が浸透していった。大昔は年貢を自ら京都へ運んだものが、やがて流通業者が現れてくる。そして「荘園」は有名無実化していった。
(紀伊国桛田(かせだ)荘絵図)
 この本では荘園の崩壊を「応仁の乱」に求めている。確かにそれは重大だが、僕はやはり法制度上の最終的な画期は「太閤検地」でいいんじゃないかと思う。「職(しき)の一円化」という事態が進行して、それまでの「三層構造」がなくなるのが「荘園の崩壊」である。その後も王家・貴族・寺社は武家政権に認められた(寄進された)領地を所有するが、年貢はほぼ「村請」で納められた。村には荘官も地頭もいないのである。

 今の生産活動の中心は「株式会社」である。「不輸・不入の権」などは持ってなくて、国家権力の下にある。しかし、政治献金などを通し政界に影響を持っている。国家には法人税や固定資産税を払うし、地方税もある。従業員の厚生年金の負担もある。会社の所有者である株主には配当があり、株は売買自由だから利潤が海外の投資ファンドに回ることも多い。そんなことは現代人には常識だが、この重層的な権益体系は仕組みが大きく変わったら理解不能だろう。「荘園制度」もその時代を生きる人には常識だったことが、今となっては理解が難しいのである。
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